黙示の職種限定合意
民事|労働法|労働者の利益と雇用主(使用者)の利益対立の限界|最高裁判所令和6年4月26日判決
目次
質問:
理系大学を卒業してメーカー就職しました。雇用契約書には明記されていませんが、卒論のテーマであった技術分野に関連する製品の研究開発業務をやりたいと面接でも話し、会社からもそのように働いて欲しいと言われて採用され、入社時には技術研究所に配属され、研究開発の仕事をしていました。しかし、職場の上司と折り合いが悪かったことが影響したのか、営業職への配置転換の辞令を受けてしまいました。私は生き甲斐を無くし精神的に落ち込み精神疾患を患ってしまいました。会社の処分を撤回してもらうことはできないでしょうか。
回答:
1、雇用契約は、民法623条(雇用契約)や労働契約法で規律される民法の典型契約(法律に規定された契約)ですが、当然ながら、雇用主(事業主)の業務内容と、被用者(労働者)の属性経歴によって契約内容が異なることになります。被用者の経歴と雇用主の事業内容に着目して、雇用契約締結にあたり技術研究職などの職種を限定する労働契約を締結することができます。
2、雇用労働契約の当事者は契約条件のひとつとして職種を限定する合意をすることができ、この合意は原則として雇用契約や入社時の労働条件通知書などの書面によって定めることが望ましいとされていますが(労働契約法4条2項)、書面が作成されていない場合でも、口頭の合意や黙示の合意によっても、職種限定合意をすることができるとされています(本邦の民法典の意思主義)。但し、書面が作成されていない場合は、これを立証するために、書面に代わる様々な証拠資料を用意する必要があります。職種限定合意に反する配置転換命令は契約違反となり法的に無効となります。
具体的には、配置転換命令が無効であることを主張して雇用者に命令の撤回、従前の職場復帰を要求することが可能です。また、精神疾患を患ってしまったということであれば、雇用者側の安全配慮義務違反として債務不履行、不法行為を理由に損害賠償の請求も可能です。
3、黙示の職種限定合意に関する判例がありますので御紹介致します。お困りの場合は、証拠収集の段階から弁護士に御相談なさり、法的主張を御検討なさると良いでしょう。
4、関連事例集1685番、1141番、1133番,1062番,925番,915番,842番,786番,763番,762番,743番,721番,657番等参照。その他、配置転換に関する関連事例集参照。
解説:
1、雇用契約
雇用契約は、契約当事者が、労務の提供を約し、その報酬を支払うことを約することにより成立する契約ですが、民法623条に規定されている典型契約です。典型契約というのは、社会における契約実態が多数あるために民法典に契約内容や成立方法や効力などが規定されている一般的な契約形態を指します。反対に、私的自治に基づいて新しい社会事情に適合するために当事者がゼロから起草して締結するもの、民法典には規定が無いものを、無名契約と言います。無名契約の例としては、秘密保持契約やフランチャイズ契約などが挙げられます。
雇用契約は、労働の対価を得て生活する一般労働者の生活の基盤となる契約ですし、事業を行う雇用者側にとっても事業継続に必要不可欠の契約ですから、契約の解釈と当事者を拘束する効力については、労働基準法や労働契約法などの特別法が制定され、当事者の公平に加えて、労働者の保護や労働関係の安定が図られています。
民法623条(雇用) 雇用は、当事者の一方が相手方に対して労働に従事することを約し、相手方がこれに対してその報酬を与えることを約することによって、その効力を生ずる。労働契約法1条(目的) この法律は、労働者及び使用者の自主的な交渉の下で、労働契約が合意により成立し、又は変更されるという合意の原則その他労働契約に関する基本的事項を定めることにより、合理的な労働条件の決定又は変更が円滑に行われるようにすることを通じて、労働者の保護を図りつつ、個別の労働関係の安定に資することを目的とする。
労働基準法13条(この法律違反の契約) この法律で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分については無効とする。この場合において、無効となつた部分は、この法律で定める基準による。
このように、民法典や労働契約法や労働基準法で定められている雇用契約の内容は契約の基本的な枠組みだけであり、就労の時間や場所や業務内容などの詳細は、当事者間の合意によって個別具体的に定まることになります。このような合意は雇用主(事業主)の業務内容と、被用者(労働者)の属性経歴をもとに、当事者間の特約として雇用契約書に記載され、それにより具多的な契約内容が異なることになります。被用者の経歴と雇用主の事業内容に着目して、雇用契約締結にあたり技術研究職などの職種を限定する労働契約を締結することができます。
労働契約の内容は、原則として雇用契約書や入社時の労働条件通知書などの書面によって定めることが望ましいとされていますが(労働契約法4条2項)、書面が作成されていない場合でも、口頭の合意や黙示の合意によっても、職種限定合意をすることができるとされています(本邦の民法典の意思主義)。これはすべての契約についての基本です。但し、書面が作成されていない場合は、これを主張立証するために、書面に代わる様々な証拠資料を用意する必要があります。
意思主義というのは、契約の成立などの法律効果の根拠を当事者の意思の合致に求める私法の原則です。これに対して、法律効果の発生に意思の合致のほかに特定の書面などの法律上の形式を必要とする場合を、形式主義と言います。本邦の民法典でも意思主義を採用しており、例外的に法政策上の必要や弱者保護が必要な特定場面において形式主義を採用しています。例えば、婚姻は当事者の合意により成立しますが当事者だけでなく親族関係など社会的な影響もあることから戸籍法に従って届け出をしなければ法的な効力を生じません(民法739条)。また、立場の強い貸主により不利益な条件で口約束による保証債務を負担させられてしまう事態を防止するために、保証契約を締結するには書面の作成が要件となっています(民法446条2項)。
雇用契約については、原則通り意思主義が適用されますので、当事者の「雇用契約を締結する」という意思が合致しさえすれば、有効に契約を締結することが可能です。ですから、例えば、入社時に雇用契約書を取り交わして居なくても、雇用主と労働者が雇用関係を締結する合意をしており、実際に就労の実態が継続され、賃金の支払いが行われていたということであれば、後日何らかのトラブルになったとしても、両当事者間で雇用契約の成立について争うことは難しいことになります。雇用主側は、「雇用契約書を作成していないから雇用契約していない」とは主張できないのです。
※意思主義に関する参考判例最高裁判所昭和24年6月4日判決
『しかし原判決挙示の証拠により昭和二〇年九月二五日上告人等が村田茂七から被上告会社の株式百株の譲渡を受け適法に取締役に選任されたことが認められる、そして右譲渡は当時上告人等に被上告会社の役員たる資格を与えるためのいわゆる資格株の譲渡であつて後日返還することを約したものであるからといつて、その譲渡を仮装であるということはできない、また株式の譲渡は意思表示だけでその効力を生ずるのであるから当時右譲渡について株券の交付、名義書換の手続が行われなかつたとしても上告人の取締役選任の効力には何等影響するところはない、また上告人が株券供託の規定に違反したかどうかの点は原審で問題になつていないのみならず、仮りに上告人が株券を被上告会社の監査役に供託しなかつたとしてもこれによつて取締役選任の効力がないとはいえないのであるから原判決には所論のような違法なく論旨はいずれも理由がない。』
2、職種限定合意
労働契約の特約として、職種内容を限定することも可能と解釈されており、採用募集時の募集条件(資格、能力)「や応募者の経歴などから、入社後の職種(業務内容)を限定する特約(「職種限定合意」)を締結することができます。例えば、航空会社の操縦士やフライトアテンダント(乗務員)、バス会社のバス運転手などです。
この雇用契約の特約「職種限定合意」についても、労働契約本体と同様に、書面による取り交わしが望ましいことですが、私的自治(契約自由原則)の範囲内として、当事者間の自由な契約締結活動ですから、意思の合致のみによって契約することも勿論可能と考えられます。
書面がなく、合意の有無が当事者間で争いになった場合は、学歴や資格や職務経歴などから特定の業務に従事することが合意されていたと見られるかどうかがポイントになるでしょう。一般に、そのような特定の業務に従事することは被用者の生き甲斐や人生観の重要な構成要素となりますので、これを被用者に何の落ち度もなく一方的に変更された場合には、精神的に大きなストレスとなり、精神疾患の原因にもなってしまう重大な問題です。御相談のケースのように、大学で所属した研究室や卒業論文や工学修士号などの内容から、技術研究開発の職種に限定する合意も有効に成立し得るでしょう。特に口頭での合意が不明確な場、黙示の合意が成立していたかが問題となりますが、このような事情がある場合は肯定される場合が多いでしょう。
職種限定合意に反する配置転換命令は契約違反となり法的に無効となります。
3、判例紹介
福祉用具の製造開発業務の技術者として就業していたところ、施設管理担当業務への配置転換が命じられた、という事例について、書面がなくても技術職に限定する合意があったことを認めて、配置転換命令が無効であることを認めた判例を紹介します。
※最高裁判所令和6年4月26日判決『1 本件は、被上告人に雇用されていた上告人が、被上告人から、職種及び業務内容の変更を伴う配置転換命令を受けたため、同命令は上告人と被上告人との間でされた上告人の職種等を限定する旨の合意に反するなどとして、被上告人に対し、債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償請求(以下「本件損害賠償請求」という。)等をする事案である。
2 原審の確定した事実関係等の概要は、次のとおりである。
(1) 公の施設であるS福祉センターの一部であるS福祉用具センター(以下、単に「福祉用具センター」という。)においては、福祉用具について、その展示及び普及、利用者からの相談に基づく改造及び製作並びに技術の開発等の業務を行うものとされており、福祉用具センターが開設されてから平成15年3月までは財団法人Sが、同年4月以降は上記財団法人の権利義務を承継した被上告人が、指定管理者等として上記業務を行っていた。
(2) 上告人は、平成13年3月、上記財団法人に、福祉用具センターにおける上記の改造及び製作並びに技術の開発(以下、併せて「本件業務」という。)に係る技術職として雇用されて以降、上記技術職として勤務していた。上告人と被上告人との間には、上告人の職種及び業務内容を上記技術職に限定する旨の合意(以下「本件合意」という。)があった。
(3) 被上告人は、上告人に対し、その同意を得ることなく、平成31年4月1日付けでの総務課施設管理担当への配置転換を命じた(以下、この命令を「本件配転命令」という。)。
3 原審は、上記事実関係等の下において、本件配転命令は配置転換命令権の濫用に当たらず、違法であるとはいえないと判断し、本件損害賠償請求を棄却すべきものとした。
4 しかしながら、原審の上記判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。
労働者と使用者との間に当該労働者の職種や業務内容を特定のものに限定する旨の合意がある場合には、使用者は、当該労働者に対し、その個別的同意なしに当該合意に反する配置転換を命ずる権限を有しないと解される。上記事実関係等によれば、上告人と被上告人との間には、上告人の職種及び業務内容を本件業務に係る技術職に限定する旨の本件合意があったというのであるから、被上告人は、上告人に対し、その同意を得ることなく総務課施設管理担当への配置転換を命ずる権限をそもそも有していなかったものというほかない。
そうすると、被上告人が上告人に対してその同意を得ることなくした本件配転命令につき、被上告人が本件配転命令をする権限を有していたことを前提として、その濫用に当たらないとした原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。
5 以上によれば、この点に関する論旨は理由があり、その余の論旨について判断するまでもなく、原判決中、不服申立ての範囲である本判決主文第1項記載の部分(本件損害賠償請求に係る部分)は破棄を免れない。そして、本件配転命令について不法行為を構成すると認めるに足りる事情の有無や、被上告人が上告人の配置転換に関し上告人に対して負う雇用契約上の債務の内容及びその不履行の有無等について更に審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すこととする。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。』
※大阪高等裁判所令和7年1月23日判決(差し戻し控訴審)
『3 争点(1)(本件配転命令は違法か)について
次のとおり補正するほかは、原判決の「事実及び理由」中の「第3 当裁判所の判断」の1(2)から(6)までに記載のとおりであるから、これを引用する。
(1) 原判決39頁20行目冒頭から22行目の「ない。」までを次のとおり改める。
「(2) 職種限定合意の存否について
労働者と使用者との間に当該労働者の職種や業務内容を特定のものに限定する旨の合意がある場合には、使用者は、当該労働者に対し、その個別的同意なしに当該合意に反する配置転換を命ずる権限を有しないと解される。
これを本件についてみると、確かに、控訴人と被控訴人との間には、控訴人の職種及び業務内容を本件業務に係る技術職に限定する旨の書面による明示の合意は存在しない。」
(2) 原判決39頁25行目から末行にかけての「福祉用具の改造・製作、技術開発を行う技術者」を「本件業務に係る技術職」と、40頁5行目の「機械技術者」を「本件業務に係る技術職」とそれぞれ改める。
(3) 原判決40頁7行目の「被告が」から9行目末尾までを次のとおり改める。
「控訴人の職種及び業務内容を本件業務に係る技術職に限定する旨の黙示の合意(以下「本件合意」という。)があったと認められる。」
(4) 原判決40頁10行目冒頭から41頁14行目末尾までを次のとおり改める。
「(3) 本件配転命令が不法行為を構成するかについて上記(2)のとおり、控訴人と被控訴人との間には、控訴人の職種及び業務内容を本件業務に係る技術職に限定する旨の本件合意があったというのであるから、被控訴人は、控訴人に対し、その同意を得ることなく総務課施設管理担当への配置転換を命ずる権限をそもそも有していなかったものというほかない。にもかかわらず、被控訴人は、本件合意に反して本件配転命令を行ったものであって、同命令は違法というべきである。
しかも、前記(2)で述べたとおり、被控訴人は、控訴人を本件業務に係る技術職以外の職種に就かせることを想定していなかった上、控訴人においても、本件配転命令の発令前に、被控訴人に対し、本件面談を通じて、本件業務に係る技術職を続けたい旨を訴えていたのであるし、L課長が控訴人の前で改造・製作業務をやめるという趣旨の発言をしたときも、被控訴人の内部相談窓口に対し、控訴人の業務を否定することであり、パワーハラスメントに該当するとの通報をしているなど、本件合意の存在をうかがわせる対応をしており、被控訴人としては、本件合意の存在を容易に認識できたというべきであるから、被控訴人には本件配転命令を行ったことについて過失が認められる。
したがって、被控訴人による本件配転命令は、控訴人に対する関係で、不法行為を構成するというべきである。
(4) この点、被控訴人は、本件面談の際、被控訴人における改造製作業務を行わないことを前提として控訴人に意見を求めたところ、控訴人は、改造製作業務の廃止についてもバスチェアの話に終始しており、職種の廃止については、控訴人の同意が見込めなかったので平成31年3月の年度末に改造製作業務を廃止して、控訴人を総務課へ異動させたと主張する。
しかし、本件面談の録音記録(甲108)とその録音反訳(甲106、107)によっても、本件面談の際に、被控訴人が、控訴人に対し、改造製作業務を廃止することを説明して意見を求めたと認められないし、控訴人は、今後も本件業務に係る技術職を続けることを前提に、自己の意見を述べていることが認められるから、被控訴人の主張は採用できない。」』
上記2つの判例は、同じ事件の最高裁判決と、破棄差戻の差し戻し審の判決です。この判例では、①労働契約に職種や業務内容について限定する合意があれば従業員の意思に反して異なる職種や業務への配置転換を命ずることはできない、②職種限定合意が書面でなされていなくても契約に至った経緯や就業状況などから合意していたことを認定できる、③職種限定合意があるのに十分な説明や同意を得ることなく異なる職種への配置転換命令を行うことは雇用主に不法行為責任を生じる過失となり得る、ことなどが判示されています。裁判所は、法令や契約を形式的に適用したり解釈したりするのではなく、当事者の「生き甲斐」や「人生観」についても十分配慮して判断を下しているのです。裁判官も人ですから、そのような事情を分かりやすく説明・主張・立証する訴訟活動が大切です。
判例の事案では精神疾患により働けない状態が継続していたことから請求の趣旨に復職は含まれていませんでしたが、勤務可能な状態であれば配転命令の無効と復職も主文で命ずることが考えられます。
4、文書以外による立証活動
以上のとおり、御相談のような技術研究開発職に関する職務限定合意も成立し得ますし、この合意は、必ずしも書面でなされる必要は無く、口頭の合意や、黙示の合意でも成立し得ることになります。
しかし、いくら意思の合致があったと言っても、紛争段階になって雇用者側が「そのような合意はしていない。そのような契約書面も無い。」と主張している場合は、裁判で請求している原告側に事実関係の立証責任があります。民事訴訟法には原告の立証責任について明文の規定はありませんが、民事訴訟法179条(要証事実)や同180条(証拠申出方法)の規定などから、原告が主張する事実については原告に立証責任があると解釈されています。原告が主張する事実について証拠を提出せず立証しなかったり、または立証が不十分だった場合には、請求棄却判決が下され、原告が敗訴する結果となるのです。
民事訴訟法179条(証明することを要しない事実) 裁判所において当事者が自白した事実及び顕著な事実は、証明することを要しない。180条(証拠の申出)
1項 証拠の申出は、証明すべき事実を特定してしなければならない。
2項 証拠の申出は、期日前においてもすることができる。
民事訴訟法228条(文書の成立)
1項 文書は、その成立が真正であることを証明しなければならない。
2項 文書は、その方式及び趣旨により公務員が職務上作成したものと認めるべきときは、真正に成立した公文書と推定する。
3項 公文書の成立の真否について疑いがあるときは、裁判所は、職権で、当該官庁又は公署に照会をすることができる。
4項 私文書は、本人又はその代理人の署名又は押印があるときは、真正に成立したものと推定する。
5項 第二項及び第三項の規定は、外国の官庁又は公署の作成に係るものと認めるべき文書について準用する。
民事訴訟法228条1項では、文書が真正に成立していることを証拠提出者が証明しなければならないと規定され、私文書の場合は、名義人の署名または押印があれば真正に成立したものと「推定」されると規定されています(228条4項)。「推定」とは、反証を許す形で法律上の事実関係の存在を認めることを指します。当該事実に関して争いたい相手方は別の証拠を提出して主張立証することが必要となります。「真正に成立」しているとは、偽造や変造されたものではなく、書面に記載された通りの名義人の意思表示や契約に基づいて作成されているということです。勿論、その表示された意思や契約条項の解釈は問題となりえますが、書面が提出されている場合は、当該文書は偽造文書であるなど被告側の反証が無い限り(筆跡鑑定書などの提出が無い限り)、書面に記載された合意なり契約は存在していたと、一応認められるのです。これは事実上、文書の真正に関して立証責任を文書提出の相手方に転換させているものと解釈できます。文書の真正が推定された証拠には「形式的証拠能力」が備わっているとされます。
他方、文書の意味内容の解釈と(職種限定合意の存在など)要証事実との関係で「実質的証拠能力」があるかどうかは、要証事実と文書の関係性などによって影響されることになります。例えば、労働契約の内容を主張立証したい場合に、両当事者が署名捺印している職種限定合意条項が含まれた詳細な労働契約書が作成されていれば(直接証拠が提出されれば)形式的証拠能力も実質的証拠能力も備えていると評価することができますが、契約書そのものではなく、当事者の一方が記録したメモ(間接証拠、状況証拠)が提出された場合は、実質的証拠能力が低いと評価される可能性もあるのです。
直接証拠は、要証事実を立証するために、他の補助的な証拠や推論を必要とせず、その事実自体を直接示す証拠です。例えば、目撃証言や録音・録画映像などがあり、これらは証明したい事実が実際に起こったことを、直接的に示す性質を持ちます。契約内容を証明したい場合の契約書も直接証拠です。
他方、直接証拠とは対照的なものに、間接証拠(状況証拠)があります。間接証拠は、直接的な証明ではなく、他の事実や状況から推論して事実を立証するものであり、要証事実との関係が直接証拠ほど一義的ではないため、複数の証拠との照合や補完が求められる場合が多くなります。直接証拠はその実質的証拠力の高さから最重要視されるものですが、御相談のケースのように原告側が用意できない場合も多くありますし、最終的な判断(実質的証拠能力を認めるかどうか)は証拠全体の評価に基づいて行われます。
実質的証拠能力については、民事訴訟法247条で自由心証主義が採用されているために、これを提出したら必ず事実が認められるということはありません。証拠の評価は裁判官の証拠調べによる見聞と職業的経験に基づく自由な評価に任せた方が真実に近づくことができると考えられているのです。そのため、裁判所が適正公平に証拠の評価をできるように丁寧な主張立証が求められます。契約書などの直接証拠とされるものが提出されていたとしても、当事者がその真正を争っている場合は、「契約書は偽造変造の疑いが残る」として証拠採用を否定する場合もあるのです。
民事訴訟法247条(自由心証主義) 裁判所は、判決をするに当たり、口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果をしん酌して、自由な心証により、事実についての主張を真実と認めるべきか否かを判断する。
従って、文書が無い場合は、この文書が証明する事実関係と同じ内容を、文書がある場合よりも丁寧に、要証事実との関係も含めて慎重に考慮した上で、他の証拠物(状況証拠)によって主張立証していくことが必要になります。証拠説明書の記載も重要です。複数の間接証拠が相互に補完している事情を丁寧に説明する必要があります。文書以外の証拠には民事訴訟法228条4項のような立証責任の転換もありませんから、丁寧に証拠を収集し、立証趣旨を証拠説明書で丁寧に主張することが必要となります。労働契約の内容に関して裁判実務で用いられている証拠の例を列挙しますので参考になさって下さい。
・採用募集時の募集要項・職種に必要な国家資格の免許証
・職種を基礎づける学生時代の卒業論文、修了証
・証人尋問(そのような職種限定合意を口頭で合意しているのを見聞した証人の証言)
・雇用側と被用者の会話録音(ICレコーダーのデータ)
・上記会話録音の反訳文書(文字起こしした書面)
・雇用側と被用者の電子メール連絡(電子メールのプリント)
・被用者の業務日誌や日記(公的なものでも、私的なものでも)
・被用者が同僚や家族や友人と仕事状況について連絡しているSNSなどの連絡記録(スクリーンショットのプリント)
・勤務先の業務内容を表示しているパンフレットやWEBページプリント
・職場内の就業状況についての(元)同僚の証言
・同じように職種限定合意をしていた(元)同僚の証言
・職種限定合意に関する陳述書(原告、同僚、家族等関係者)
このように、直接証拠となる契約書で職種限定合意を立証できない場合は、文書の原本を裁判所の証拠調べに提出すれば済む書証とは異なり、文書以外によって事実を立証しなければなりませんので、証拠収集の段階から丁寧に包括的に準備することが必要になります。お困りの場合は、お近くの弁護士事務所に御相談なさり、主張立証の準備をなさると良いでしょう。
以上