新銀座法律事務所 法律相談事例集データベース
No.1636、2015/09/29 12:00 https://www.shinginza.com/qa-roudou.htm

【民事、安全配慮義務違反と過失相殺、心因的要因や健康情報の不告知はどうか、交通事故の過失相殺との違い、最高裁平成26年3月24日判決】

従業員に精神疾患がある場合の雇用主の責任


質問:
私は,Y社の従業員として働いていたのですが,過重な業務を起因して,うつ病に罹患して休職し休職期間満了後にY社から解雇されました。
私は,Y社に対し,安全配慮義務違反等を理由として損害賠償を請求したところ,Y社は,私がY社に対して自らの精神的健康(いわゆるメンタルヘルス)に関する情報を申告しなかったことや私自身の心因的要因を理由に賠償額の減額を主張しています。
Y社の主張は正しいのでしょうか。



回答:

1 安全配慮義務違反を理由とする損害賠償請求
使用者は,労働契約に伴い,労働者がその生命,身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう,必要な配慮をしなければなりません(労働契約法5条。いわゆる安全配慮義務)。そして,この義務の違反があった場合,使用者としての債務不履行、あるいは不法行為が認められ、労働者は,使用者に対して,この義務の違反によって生じた損害の賠償を請求することができます(民法415条,709条)。

2 安全配慮義務違反と過失相殺
(1) 債務不履行、不法行為いずれにおいても、被害者(ないし債権者)にも損害の原因となった過失があったときは,裁判所は,これを考慮して,損害賠償の額を定めることができます(民法418条,722条2項。いわゆる過失相殺)。
(2) 安全配慮義務違反を理由とする損害賠償においても,労働者に過失があった場合,過失相殺が認められています。そして、使用者が労働者の心因的要因や健康情報の不告知をが過失相殺の根拠として主張することがしばしば見受けられることから、そのような主張が肯定されるのか問題となります。
ア 心因的要因については,最高裁平成12年3月24日判決及び最高裁平成26年3月24日判決は,「ある業務に従事する特定の労働者の性格が同種の業務に従事する労働者の個性の多様さとして通常想定される範囲を外れるものでない限り,」過失相殺を否定しました。
イ また,労働者の健康情報の不告知に関しては前掲最高裁平成26年3月24日判決は,あくまで事例判断ではありますが,いわゆるメンタルヘルス情報の不申告ついて過失相殺を否定しました。
使用者、労働者間の労働契約、地位が実質的に見て不平等を前提に成り立っており、当事者の公平を図る見地から一般論としては妥当な見解と思われます。

3 本件について
以上より,あなたの心因的要因やメンタルヘルス情報の不申告をもって使用者が過失相殺を主張することは原則として認められないと考えられ、賠償額の減額は認められない,すなわちYの主張は不当である,という可能性は十分にあります。
弁護士等法律専門家に相談されることをお勧めいたします。

4 関連事例集  安全配慮義務違反について1557番1433番1365番1290番1053番1035番1014番936番871番730番588番567番548番参照。
労働契約に関し 1553番730番1240番1141番971番926番852番865番692番参照。


解説:

1 安全配慮義務

 使用者は,労働契約に伴い,労働者がその生命,身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう,必要な配慮をしなければなりません(労働契約法5条)。この義務は安全配慮義務といわれるもので,判例によって形成され(最高裁昭和50年2月25日判決,最高裁昭和59年4月10日判決等),労働契約法5条によって明文化されました。

 安全配慮義務の違反があった場合,労働者は,使用者に対して,この義務の違反によって生じた損害の賠償を請求することができます(民法415条,709条)。

2 安全配慮義務違反と過失相殺

(1) 過失相殺一般

ア 意義

 被害者に過失があったときは,裁判所は,これを考慮して,損害賠償の額を定めることができます(民法722条2項。いわゆる過失相殺)。同条項は不法行為に基づく損害賠償についての定めですが,債務不履行に基づく損害賠償についても同様の定めがあります(民法418条)。

過失相殺の制度趣旨は,生じた損害を当事者間で公平に分担させることにあります。

安全配慮義務違反を理由とする損害賠償においても,労働者に過失があった場合,判例上,過失相殺が認められています(後記(2)参照)。

イ 心因的要因と過失相殺

 一般不法行為において損害の発生・拡大に被害者の心因的要因が寄与したという場合も,判例上,過失相殺は認められています。

交通事故の事案において,最高裁昭和63年4月21日判決は,以下のように述べて,過失相殺を肯定しました。

「思うに,身体に対する加害行為と発生した損害との間に相当因果関係がある場合において,その損害がその加害行為のみによつて通常発生する程度,範囲を超えるものであつて,かつ,その損害の拡大について被害者の心因的要因が寄与しているときは,損害を公平に分担させるという損害賠償法の理念に照らし,裁判所は,損害賠償の額を定めるに当たり,民法722条2項の過失相殺の規定を類推適用して,その損害の拡大に寄与した被害者の右事情を斟酌することができるものと解するのが相当である。」

(2) 労災事故と過失相殺

 労災事故による損害賠償請求の場合においても,一般に過失相殺は認められています(後掲判例のほか,最高裁平成20年3月27日判決等)。

ア 健康情報の不申告と過失相殺

 では、労働者が自らの健康情報を使用者に申告していなかった場合,そのことを理由に過失相殺は肯定されるのでしょうか。健康情報の申告があれば使用者において損害が発生信用しないように安全配慮を尽くせたが、そのような申告がないために入りがつくせず損害が拡大したのであり、その点労働者にも過失があると言えるかという問題です。

(ア) 最高裁判決

 この点,最高裁平成26年3月24日判決(以下「平成26年判決」といいます。)は,以下のように述べて,いわゆるメンタルヘルス情報の不申告について過失相殺を否定しました(もっとも,あくまで事例判断であるため,メンタルヘルス情報の不申告につき過失相殺が必ず否定される,というわけでないことに注意が必要です。)。

「ア Xは,本件鬱病の発症以前の数か月において,・・・Xの業務の負担は相当過重なものであったといえる。
イ 上記の業務の過程において,XがY社に申告しなかった自らの精神的健康(いわゆるメンタルヘルス)に関する情報は,神経科の医院への通院,その診断に係る病名,神経症に適応のある薬剤の処方等を内容とするもので,労働者にとって,自己のプライバシーに属する情報であり,人事考課等に影響し得る事柄として通常は職場において知られることなく就労を継続しようとすることが想定される性質の情報であったといえる。使用者は,必ずしも労働者からの申告がなくても,その健康に関わる労働環境等に十分な注意を払うべき安全配慮義務を負っているところ,上記のように労働者にとって過重な業務が続く中でその体調の悪化が看取される場合には,上記のような情報については労働者本人からの積極的な申告が期待し難いことを前提とした上で,必要に応じてその業務を軽減するなど労働者の心身の健康への配慮に努める必要があるものというべきである。また,本件においては,・・・上記の過重な業務が続く中で,Xは,上記のとおり体調が不良であることをY社に伝えて相当の日数の欠勤を繰り返し,業務の軽減の申出をするなどしていたものであるから,Y社としては,そのような状態が過重な業務によって生じていることを認識し得る状況にあり,その状態の悪化を防ぐためにXの業務の軽減をするなどの措置を執ることは可能であったというべきである。これらの諸事情に鑑みると,Y社がXに対し上記の措置を執らずに本件鬱病が発症し増悪したことについて,XがY社に対して上記の情報を申告しなかったことを重視するのは相当でなく,これをXの責めに帰すべきものということはできない。
ウ 以上によれば,Y社が安全配慮義務違反等に基づく損害賠償としてXに対し賠償すべき額を定めるに当たっては,Xが上記の情報をY社に申告しなかったことをもって,民法418条又は722条2項の規定による過失相殺をすることはできないというべきである。」

(イ) 検討

 平成26年判決は,健康情報の不告知と過失相殺について判断した,初めての最高裁判決です。

 もっとも,あくまで事例判断であることに加え,健康情報一般ではなく,いわゆるメンタルヘルス情報に限定した判断であることには注意が必要です。

 過失相殺を否定した理由の1つとして,メンタルヘルス情報が,「神経科の医院への通院,その診断に係る病名,神経症に適応のある薬剤の処方等を内容とするもので,労働者にとって,自己のプライバシーに属する情報であり,人事考課等に影響し得る事柄として通常は職場において知られることなく就労を継続しようとすることが想定される性質の情報であったといえる」ことが挙げられていることに鑑みると,この判決をもって,最高裁が,健康情報一般の不告知つき過失相殺を否定する方向にあると考えるのは早計といえるでしょう。平成26年判決以前の下級審判決として,予防検診で医師に指示された治療を続けなかったこと,使用者に病状を報告しなかったことなどを勘案し,損害額につきその4割を減額するのが相当とした大阪高裁平成15年5月29日判決があります。
とはいえ,労働者の健康状態を積極的に把握しこれに配慮する義務を使用者側に課した例として,平成26年判決が実務に与える影響は小さくないものと考えます。

イ 労働者の心因的要因と過失相殺

 損害の発生・拡大に被害者の心因的要因が寄与したという場合,安全配慮義務違反を理由とする損害賠償においても,過失相殺は肯定されるのでしょうか(前記(1)イ参照)。

(ア) 最高裁判決

 この点,前掲最高裁平成26年3月24日判決は,「ある業務に従事する特定の労働者の性格が同種の業務に従事する労働者の個性の多様さとして通常想定される範囲を外れるものでない限り,」過失相殺を否定するという規範を示した最高裁平成12年3月24日判決(以下「平成12年判決」といいます。)を前提としつつ,以下のように述べて,当該事案における過失相殺を否定しました。

「本件鬱病は・・・過重な業務によって発症し増悪したものであるところ,Xは,それ以前は入社以来長年にわたり特段の支障なく勤務を継続していたものであり,また,上記の業務を離れた後もその業務起因性や損害賠償責任等が争われて複数の争訟等が長期にわたり続いたため,その対応に心理的な負担を負い,争訟等の帰すうへの不安等を抱えていたことがうかがわれる。これらの諸事情に鑑みれば,原審が摘示する・・・各事情をもってしてもなお,Xについて,同種の業務に従事する労働者の個性の多様さとして通常想定される範囲を外れるぜい弱性などの特性等を有していたことをうかがわせるに足りる事情があるということはできない(最高裁平成・・・12年3月24日第二小法廷判決・・・参照)。」

(イ) 検討

a 平成26年判決は,前記のとおり平成12年判決が示した規範を前提とするものです。平成12年判決の判旨は,以下のとおりです。

(最高裁昭和63年判決の判旨[前記(1)イ]を引用しつつ,)「この趣旨は,労働者の業務の負担が過重であることを原因とする損害賠償請求においても,基本的に同様に解すべきものである。しかしながら,企業等に雇用される労働者の性格が多様のものであることはいうまでもないところ,ある業務に従事する特定の労働者の性格が同種の業務に従事する労働者の個性の多様さとして通常想定される範囲を外れるものでない限り,その性格及びこれに基づく業務遂行の態様等が業務の過重負担に起因して当該労働者に生じた損害の発生又は拡大に寄与したとしても,そのような事態は使用者として予想すべきものということができる。しかも,使用者又はこれに代わって労働者に対し業務上の指揮監督を行う者は,各労働者がその従事すべき業務に適するか否かを判断して,その配置先,遂行すべき業務の内容等を定めるのであり,その際に,各労働者の性格をも考慮することができるのである。したがって,労働者の性格が前記の範囲を外れるものでない場合には,裁判所は,業務の負担が過重であることを原因とする損害賠償請求において使用者の賠償すべき額を決定するに当たり,その性格及びこれに基づく業務遂行の態様等を,心因的要因としてしんしゃくすることはできないというべきである。」

b 損害の発生・拡大に被害者の心因的要因が寄与したという場合,交通事故の事案では,判例は特段の限定を付すことなく過失相殺を肯定するのに対し(前記(1)イ参照),平成12年判決は,労災事故の事案において,「使用者又はこれに代わって労働者に対し業務上の指揮監督を行う者は,各労働者がその従事すべき業務に適するか否かを判断して,その配置先,遂行すべき業務の内容等を定めるのであり,その際に,各労働者の性格をも考慮することができる」ことなどを根拠に,過失相殺の適用につき限定的な態度を取りました(「ある業務に従事する特定の労働者の性格が同種の業務に従事する労働者の個性の多様さとして通常想定される範囲を外れるものでない限り,」過失相殺を否定。)。

平成26年判決は,この平成12年判決と方向性を同じくするものです。

 もっとも,平成12年判決以降も,安易に「ぜい弱性」を強調して過失相殺を肯定する下級審判決が散見されたことに鑑みると,平成26年判決は,平成12年判決の立場を再確認する意味で,実務的に意義のある判決であると考えます。

<参照条文>
民法
(債務不履行による損害賠償)
第415条 債務者がその債務の本旨に従った履行をしないときは,債権者は,これによって生じた損害の賠償を請求することができる。債務者の責めに帰すべき事由によって履行をすることができなくなったときも,同様とする。
(過失相殺)
第418条 債務の不履行に関して債権者に過失があったときは,裁判所は,これを考慮して,損害賠償の責任及びその額を定める。
(不法行為による損害賠償)
第709条 故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は,これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
(損害賠償の方法及び過失相殺)
第722条 第417条の規定は,不法行為による損害賠償について準用する。
2 被害者に過失があったときは,裁判所は,これを考慮して,損害賠償の額を定めることができる。

労働契約法
(労働者の安全への配慮)
第5条 使用者は,労働契約に伴い,労働者がその生命,身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう,必要な配慮をするものとする。

<参照判例>
最高裁平成26年3月24日判決
主文
1 原判決中,損害賠償請求及び見舞金支払請求に関する上告人敗訴部分を破棄し,同部分につき,本件を東京高等裁判所に差し戻す。
2 上告人のその余の上告を棄却する。
3 前項に関する上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人・・・の上告受理申立て理由第4ないし第8について
1 本件は,Y社の従業員であったXが,鬱病に罹患して休職し休職期間満了後にY社から解雇されたが,上記鬱病(以下「本件鬱病」という。)は過重な業務に起因するものであって上記解雇は違法,無効であるとして,Y社に対し,安全配慮義務違反等による債務不履行又は不法行為に基づく休業損害や慰謝料等の損害賠償,Y社の規程に基づく見舞金の支払,未払賃金の支払等を求める事案である。なお,上記休業損害の損害賠償請求と上記未払賃金の支払請求とは選択的併合の関係にある。
2 原審の確定した事実関係等の概要は,次のとおりである。
(1) Xは,昭和41年生まれの女性であり,平成2年3月に大学の理工学部を卒業し,同年4月にY社に雇用されて入社した。Xは,社内において,与えられた仕事に関して真面目に取り組む努力家であるとされていた。
Xは,平成10年1月にY社の液晶ディスプレイ等を製造する工場(以下「本件工場」という。)に異動となり,液晶生産事業部(以下「本件配属部」という。)の一つの技術部門を担当する課に配属となり,同12年から同14年にかけての直属の上司は,上記の配属課の課長(以下単に「課長」という。)であった。
(2) Y社は,本件工場において,遅くとも平成12年11月頃から,当時世界最大のサイズのガラス基板を用いる液晶ディスプレイの製造ラインを構築するプロジェクト(以下「本件プロジェクト」という。)を立ち上げ,「垂直立上げ」という標語を掲げ,人材を集中させて同13年4月までの短期間で成功することを目指していた。本件プロジェクトにおけるXを含む技術担当者の主な業務は,設備メーカーと共同で製品の良品率や生産性を向上させるために製造装置の運転条件を調整する作業であった。
Xは,本件プロジェクトの一つの工程において初めてプロジェクトのリーダーになった。Xは,本件プロジェクトへの従事中,休日に出勤することも多く,帰宅が午後11時を過ぎることも増えた。
Xは,入社後5年目くらいから不眠の症状が現れ,平成9年及び同11年の定期健康診断(以下,各種の健康診断はいずれもY社におけるものをいう。)で生理痛を訴えていたが,同12年5月の健康診断で不眠を訴え,同年6月,本件工場の診療所で不眠症と診断されてこれに適応のあるレンドルミンを処方され,同月の定期健康診断で易疲労,首の痛み,生理痛等を訴え,経過観察とされた。また,Xは,同年7月,自宅近くの内科の医院で慢性頭痛と診断され,筋収縮性頭痛,抑鬱及び睡眠障害に適応のあるデパス錠,神経症における抑鬱に適応のあるセルシン錠等を処方され,同年8月にも不眠を訴えて上記医院を受診した。さらに,Xは,Y社が開設する社外の電話相談窓口に相談したのを契機に,同年12月,神経科の医院(以下「本件医院」という。)を受診し,頭痛,不眠,車酔いの感覚等を訴え,神経症と診断されてデパス錠を処方された。
(3) 本件プロジェクトは,平成13年1月(以下,月又は月日のみを記載するときは全て平成13年である。),様々な工程においてトラブルが発生して遅れが生じたため,Xが担当する作業も遅れた。
Xは,2月,繰り返し開催された対策会議に参加し,その会議において,本件配属部の部長に次ぐ地位にある参事から,自らが担当する工程の作業につき設定した期間について遅いと言われてこれを短縮するよう指示された。Xは,前倒しは無理である旨答えたが,会議の出席者らが上記参事に異議を述べたりXに助言をしたりすることはなかった。
本件プロジェクトは,3月1日の時点で,当初の計画よりも4週間遅れており,Xの担当する工程においても,同月中旬に装置のトラブルが発生し,Xはその対応に追われた。Xは,同月6日に試作品の良品率を改善するための製造条件の調整を行うよう指示を受けたが,2日後の会議でその検討状況の報告をしなかったところ,本件配属部の総合調整担当の主務からデータと詳細なスケジュールを提出するよう厳しく督促され,翌日午前1時過ぎまでかかってデータの収集等を行って上記のスケジュールを記載した書面を提出した。
Xは,本件プロジェクトの立上げ後,4月までの間に,平成12年12月に75時間06分,1月に64時間59分,2月に64時間32分,3月に84時間21分,4月に60時間33分の時間外労働(法定の労働時間を超える時間における労働をいう。以下同じ。)をそれぞれ行っていた。
(4) Xは,3月15日及び4月24日,Y社において労働時間が一定の時間を超えた従業員につき実施される時間外超過者健康診断を受診し,自覚症状として頭痛,めまい,不眠が時々あるなどと回答したが,Y社の産業医(以下単に「産業医」という。)は,いずれも特段の就労制限を要しないと判断した。
Xは,4月11日,本件医院を受診し,不眠等を訴え,不安感や抑鬱気分も認められ,デパス錠を処方されたが,鬱病に罹患しているとの確定的な診断はされていなかった。Xは,3月ないし4月頃,ふらふらと疲れているという自覚を持っていたが,そのことを職場の同僚等に言ったことはなかった。
(5) Xの担当する工程においては,3月末日までに製造ラインを稼働させる計画が変更されて業務量も減少していたことなどから,5月,技術担当者が1名減員されたが,この減員の理由はXには説明されなかった。課長は,同月中旬から,Xに対し,従前の本件プロジェクトの業務に加え,異種の液晶ディスプレイ(以下「異種製品」という。)の開発業務及び液晶ディスプレイにおける特定の技術上の支障に関する問題(以下「技術支障問題」という。)の対策業務を担当するよう指示した。
Xは,5月以降,引き続き本件プロジェクトに携わるとともに,異種製品の開発に関する会議にも出席したが,その開発の詳細な内容を知らされておらず,また,製品の出荷に向けて開発過程につき社内の承認を得るためのプロセス開発承認会議(以下「承認会議」という。)を担当した経験がなかったことから,異種製品の開発に関する知識の習得とともに,準備に通常2,3か月を要する承認会議のための資料の作成等に相当の時間を割くことになった。Xは,同月頃から,同僚の技術担当者から見ても,体調が悪い様子で,仕事を円滑に行えるようには見えなかった。
Xは,課長から技術支障問題に関する会議にも出席するよう命ぜられ,5月15日に行われたその会議に出席したが,その後,異種製品の開発業務だけでも相当の業務量があるとして,技術支障問題の対策業務の担当を断った。その後,Xは,同月22日,承認会議に向けた打合せに出席し,翌23日,有給休暇を取得したが,激しい頭痛に見舞われ,その週の残りの日を欠勤した。Xは,翌週の28日,課長に電話をかけ,頭痛等の体調不良のためその週の全日を休むと伝えて欠勤し,予定されていた承認会議に出席できなかった。Xは,6月4日,出勤したところ,担当を断った技術支障問題の対策業務について自分が担当者とされていることを知り,再度その業務の担当を断った。
(6) Xは,6月から,頭痛,不眠,疲労感等の症状が重くなったため,定時に退社したり,本件医院に定期的に月数回の通院を始めて抑鬱等に適応のあるアビリット錠等の処方を受けるようになった。
Xは,6月7日,時間外超過者健康診断を受診し,自覚症状として頭痛,めまいがいつもあり,不眠等が時々ある旨回答した。その際,産業医は,Xから,体調を崩して1週間休んでいたが課長からもう大丈夫だろうと言われて仕事を増やされた旨を聞いたが,「まあ,1週間休んだということで。」と述べ,それ以上の対応をしなかった。Xは,同月12日,定期健康診断を受診し,問診に係る自覚症状について,いつも頭が痛く重い,心配事があってよく眠れない,いつもより気が重くて憂鬱になるなど13項目の欄に印を付けて申告した。
Xは,6月下旬頃,体調不良のため,課長に対し,異種製品の開発業務の担当を断ろうとしたが,課長の了解を得ることができなかった。
Xは,7月初旬,異種製品の開発に関する関係部署への説明や会議資料の作成等に追われ,同月5日の承認会議及び同月6日の当該製品に係る関係部署の承認を得るための会議に出席し,当該製品について承認を得た。Xは,これらの会議等の後に体調を崩し,同月9日に欠勤した後,課長に対し,異種製品の開発業務に関するXの担当業務の範囲を限定するよう求め,課長もこれを了承したが,後任者が決まらなかったため,上記の担当業務の範囲は限定されない状態が続いた。
Xは,7月中旬頃,頭痛のために眠ることができず,頭痛薬を連日服用するようになった。Xは,同月17日,時間外超過者健康診断を受診し,自覚症状として頭痛,めまい,不眠がいつもある等と回答した。
Xは,7月28日から8月6日まで有給休暇等を利用して休養をとり,翌7日に出勤したが,会社にいることが嫌でたまらなく,なぜこんなに苦しいのに働くのかという思いになり,この頃,課長や同僚の技術担当者からは,元気がなく席に座って放心したような状態であるなど普段とは違う様子であると認識され,大丈夫かと声をかけられたことがあった。
(7) Xは,8月10日に課長に勧められてY社のメンタルヘルス相談を受診し,同月11日から同月15日まで夏季休暇を利用して療養した後,同月24日に本件医院からしばらく休んで療養するようにと助言されたのを受けて,9月3日に1か月の休養を要する旨を記載した本件医院の診断書を提出して休暇の手続を執り,同月末まで休暇を取得して勤務に就かなかった。
Xは,10月1日から1週間にわたり出勤したが,頭痛が生じたため再び療養することとし,同月9日以降,抑鬱状態で約1か月の休養を要するなどと記載した本件医院の診断書をほぼ毎月提出して欠勤を続け,定期的な上司との面談等を経て,職場復帰の予定で平成14年5月13日に半日出勤したが,翌日から再び上記と同様に欠勤を続けた。
Y社は,Xの欠勤期間が就業規則の定める期間を超えた平成15年1月10日,Xに対し,休職を発令し,定期的な上司との面談等を続けたが,その後もXが職場復帰をしなかったため,同16年8月6日,Xに対し,休職期間の満了を理由とする解雇予告通知をした上,同年9月9日付けで解雇の意思表示をした。
(8) Xは,平成16年9月8日,本件鬱病について,熊谷労働基準監督署長に対し,労働者災害補償保険法に基づき休業補償給付等の支給を求める請求をしたところ,同18年1月23日,これらを支給しない旨の処分(以下「本件処分」という。)を受けたため,同19年7月19日,本件処分の取消しを求める訴えを東京地方裁判所に提起した。同裁判所は,平成21年5月18日,本件鬱病には業務起因性が認められるとして,本件処分(受給権が時効により消滅した同14年9月7日以前の休業補償給付を不支給とした部分を除く。)を取り消す旨の判決をし,同判決は控訴されずに確定した。
上記の支給に係る請求の審査手続において作成された平成17年12月5日付けの埼玉労働局地方労災医員協議会精神障害専門部会の意見書において,本件鬱病の発症時期は同13年4月頃とされている。
(9) Xは,平成13年9月以降,自らを被保険者とする健康保険組合(以下「本件健康保険組合」という。)から,健康保険法99条1項に基づく傷病手当金等の支給を受けていた(以下,これを「本件傷病手当金等」という。)。
Xは,上記(8)の判決の確定後,平成14年9月8日以後の休業補償給付等の支給を受け,同21年12月24日に同月11日までの休業補償給付等の支給も受けたため,本件傷病手当金等につき,その一部を本件健康保険組合に返還したが,同14年9月7日以前の休業に対応する367万8848円を現在も保有している(以下,これを「X保有分」という。)。
3 原審は,上記事実関係等の下において,前記解雇は無効であるとし,過重な業務によって平成13年4月頃に発症し増悪した本件鬱病につきY社はXに対し安全配慮義務違反等を理由とする損害賠償責任を負うとした上で,その損害賠償の額を定めるに当たり,要旨次の(1)及び(2)のとおり判断して,過失相殺に関する民法418条又は722条2項の規定の適用ないし類推適用により損害額の2割を減額するとともに,休業損害に係る損害賠償請求につき,要旨次の(3)のとおり判断して,その認容すべき額が選択的併合の関係にある未払賃金請求の認容すべき額を下回るからこれを棄却すべきものであるとした。
(1) Xが,神経科の医院への通院,その診断に係る病名,神経症に適応のある薬剤の処方等の情報を上司や産業医等に申告しなかったことは,Y社においてXの鬱病の発症を回避したり発症後の増悪を防止する措置を執る機会を失わせる一因となったものであるから,Xの損害賠償請求については過失相殺をするのが相当である。
(2) Xが,入社後慢性的に生理痛を抱え,平成12年6月ないし7月頃及び同年12月には慢性頭痛及び神経症と診断されて抑鬱や睡眠障害に適応のある薬剤の処方を受けており,業務を離れて治療を続けながら9年を超えてなお寛解に至らないことを併せ考慮すれば,Xには個体側のぜい弱性が存在したと推認され,Xの損害賠償請求についてはいわゆる素因減額をするのが相当である。
(3) 本件傷病手当金等のX保有分については,傷病手当金は療養のため就業できない場合に支給するものとされていること等に照らせば,Xに対する損害賠償の額から控除することが相当であり,いまだ支給決定がされていない期間の休業補償給付についても,これと同様に上記の額から控除することが相当である。
4 しかしながら,原審の上記3(1)ないし(3)の判断は是認することができない。その理由は,次のとおりである。
(1)ア Xは,本件鬱病の発症以前の数か月において,前記2(3)のとおりの時間外労働を行っており,しばしば休日や深夜の勤務を余儀なくされていたところ,その間,当時世界最大サイズの液晶画面の製造ラインを短期間で立ち上げることを内容とする本件プロジェクトの一工程において初めてプロジェクトのリーダーになるという相応の精神的負荷を伴う職責を担う中で,業務の期限や日程を更に短縮されて業務の日程や内容につき上司から厳しい督促や指示を受ける一方で助言や援助を受けられず,上記工程の担当者を理由の説明なく減員された上,過去に経験のない異種製品の開発業務や技術支障問題の対策業務を新たに命ぜられるなどして負担を大幅に加重されたものであって,これらの一連の経緯や状況等に鑑みると,Xの業務の負担は相当過重なものであったといえる。
イ 上記の業務の過程において,XがY社に申告しなかった自らの精神的健康(いわゆるメンタルヘルス)に関する情報は,神経科の医院への通院,その診断に係る病名,神経症に適応のある薬剤の処方等を内容とするもので,労働者にとって,自己のプライバシーに属する情報であり,人事考課等に影響し得る事柄として通常は職場において知られることなく就労を継続しようとすることが想定される性質の情報であったといえる。使用者は,必ずしも労働者からの申告がなくても,その健康に関わる労働環境等に十分な注意を払うべき安全配慮義務を負っているところ,上記のように労働者にとって過重な業務が続く中でその体調の悪化が看取される場合には,上記のような情報については労働者本人からの積極的な申告が期待し難いことを前提とした上で,必要に応じてその業務を軽減するなど労働者の心身の健康への配慮に努める必要があるものというべきである。また,本件においては,上記の過重な業務が続く中で,Xは,平成13年3月及び4月の時間外超過者健康診断において自覚症状として頭痛,めまい,不眠等を申告し,同年5月頃から,同僚から見ても体調が悪い様子で仕事を円滑に行えるようには見えず,同月下旬以降は,頭痛等の体調不良が原因であることを上司に伝えた上で1週間以上を含む相当の日数の欠勤を繰り返して予定されていた重要な会議を欠席し,その前後には上司に対してそれまでしたことのない業務の軽減の申出を行い,従業員の健康管理等につきY社に勧告し得る産業医に対しても上記欠勤の事実等を伝え,同年6月の定期健康診断の問診でもいつもより気が重くて憂鬱になる等の多数の項目の症状を申告するなどしていたものである。このように,上記の過重な業務が続く中で,Xは,上記のとおり体調が不良であることをY社に伝えて相当の日数の欠勤を繰り返し,業務の軽減の申出をするなどしていたものであるから,Y社としては,そのような状態が過重な業務によって生じていることを認識し得る状況にあり,その状態の悪化を防ぐためにXの業務の軽減をするなどの措置を執ることは可能であったというべきである。これらの諸事情に鑑みると,Y社がXに対し上記の措置を執らずに本件鬱病が発症し増悪したことについて,XがY社に対して上記の情報を申告しなかったことを重視するのは相当でなく,これをXの責めに帰すべきものということはできない。
ウ 以上によれば,Y社が安全配慮義務違反等に基づく損害賠償としてXに対し賠償すべき額を定めるに当たっては,Xが上記の情報をY社に申告しなかったことをもって,民法418条又は722条2項の規定による過失相殺をすることはできないというべきである。
(2) また,本件鬱病は上記のように過重な業務によって発症し増悪したものであるところ,Xは,それ以前は入社以来長年にわたり特段の支障なく勤務を継続していたものであり,また,上記の業務を離れた後もその業務起因性や損害賠償責任等が争われて複数の争訟等が長期にわたり続いたため,その対応に心理的な負担を負い,争訟等の帰すうへの不安等を抱えていたことがうかがわれる。これらの諸事情に鑑みれば,原審が摘示する前記3(2)の各事情をもってしてもなお,Xについて,同種の業務に従事する労働者の個性の多様さとして通常想定される範囲を外れるぜい弱性などの特性等を有していたことをうかがわせるに足りる事情があるということはできない(最高裁平成・・・12年3月24日第二小法廷判決・・・参照)。
(3) 以上によれば,Y社の安全配慮義務違反等を理由とするXに対する損害賠償の額を定めるに当たり過失相殺に関する民法418条又は722条2項の規定の適用ないし類推適用によりその額を減額した原審の判断には,法令の解釈適用を誤った違法があるものというべきである。
(4) これに加え,原審は,安全配慮義務違反等に基づく損害賠償請求のうち休業損害に係る請求について,その損害賠償の額から本件傷病手当金等のX保有分を控除しているが,その損害賠償金は,Y社における過重な業務によって発症し増悪した本件鬱病に起因する休業損害につき業務上の疾病による損害の賠償として支払われるべきものであるところ,本件傷病手当金等は,業務外の事由による疾病等に関する保険給付として支給されるものであるから(健康保険法1条,55条1項),上記のX保有分は,不当利得として本件健康保険組合に返還されるべきものであって,これを上記損害賠償の額から控除することはできないというべきである。
また,原審は,上記請求について,上記損害賠償の額からいまだ支給決定を受けていない休業補償給付の額を控除しているが,いまだ現実の支給がされていない以上,これを控除することはできない(最高裁昭和・・・52年10月25日第三小法廷判決・・・参照)。
これらによれば,上記請求について,上記損害賠償の額を定めるに当たり,上記の各金員の額を控除した原審の判断には,法令の解釈適用を誤った違法があるものというべきである。
5 以上のとおり,原審の前記3(1)ないし(3)の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。これらの点についての論旨は理由があり,原判決中損害賠償請求に関するX敗訴部分は破棄を免れず,損害賠償の額等について更に審理を尽くさせるため,同部分につき本件を原審に差し戻すのが相当である。また,差戻し後の控訴審においては,Y社の規程に基づく見舞金の額から控除される慰謝料の額等が審理の対象となりその額も変動し得るので,上記の法令の違反は見舞金支払請求に関しても判決に影響を及ぼすことが明らかであるから,原判決中見舞金支払請求に関するX敗訴部分についても,これを破棄し,同部分につき本件を原審に差し戻すのが相当である。
なお,Xのその余の上告については,上告受理申立ての理由が上告受理の決定において排除されたので,棄却することとする。
よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。


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