遺言能力について
家事|相続|認知症と遺言能力|被相続人の利益と相続人の利益対立と限界|判断基準|ミニメンタルステート検査(MMSE)と改訂長谷川式簡易知能評価スケール(HDS-R)|東京地裁令和3年3月3日(令和元(ワ)25537)|東京地判平成30年6月13日
目次
質問:
認知症だった親が亡くなりました。他の兄弟に遺産全てを渡すとの遺言書を残していることがわかりました。遺言当時の親は認知症が相当進んでいました。真意からそのような遺言書を残したとは思えません。争う方法はありますでしょうか。
回答:
1 遺言の効力を争う場合、裁判所に遺言無効確認訴訟を提起することが可能です。遺言作成当時、認知症によって遺言能力がなかったとの主張です。
しかし、遺言作成時認知症と診断されていれば遺言能力がなく遺言書が無効となる訳ではありません。遺言無効が認められるには、認知症であったというほかに遺言能力がなかったことを主張立証する必要があります。
2 遺言能力とは、遺言内容を理解し遺言の結果を弁識し得るに足る能力と説明されます。遺言書作成時点で認知症と診断されていてもこれらの能力があれば遺言は有効と判断されます。
3 遺言能力の判断方法は、①遺言者の心身(特に精神)の状況、②遺言内容の複雑性、③相続人との人的関係、遺言を作成するに至った動機、の3点の要素が考慮されます。
①遺言者の心身の状況が特に重要な要素です。遺言者の心身の状況の判断については、客観的な指標として生前の認知症の診断の際に行われていた認知症スケールテストの結果が大きく影響します。ただし点数の大小そのままに遺言能力が判断されるわけではありません。あくまでスケールテストの数値は重要な判断材料ですが、その他の心身の状況を参照して遺言能力を総合的に裁判所が判断します。
4 遺言書に関する関連事例集参照。
解説:
1 遺言能力とは
民法は「遺言者は、遺言をする時においてその能力を有しなければならない」(民法963条)と定めており、これが遺言能力と言われます。
遺言能力は、抽象的には「遺言内容を理解し遺言の結果を弁識し得るに足る能力」と説明されます。
民法は満15歳に達すれば遺言ができるものとし(民法961条)、成人年齢よ(18歳)よりも低く設定しています(民法4条)。また被保佐人、被補助人には遺言の制限はなく、被成年後見人であっても一定の要件を満たせば遺言は可能です(民法962条、同973条1項)。このように行為能力の制限を受けるような者であっても、可能な限り遺言の作成を認め、できる限り、遺言者の最終の遺志を尊重しようとしています。
遺言能力が問題となる場面の典型は、遺言者が認知症に罹患していたことを理由に、遺言作成時の遺言能力がなく、遺言が無効であるといった主張がされる場合です。
2 遺言能力の判断基準
遺言能力の判断方法について、裁判例(広島高判令和2年9月30日判時2496号29頁)では、「遺言能力の有無の判断については、一般的な事理弁識能力があることについての医学的判断を前提にしながら、それとは区別されるところの法的判断として、当該遺言内容について遺言者が理解していたか否かを検討するのが相当であり、主として①遺言時における遺言者の精神上の障害の存否、内容及び程度、②遺言内容それ自体の複雑性、③遺言の動機・理由、遺言者と相続人又は受遺者との人的関係・交際状況、遺言に至る経緯等の諸事情を総合考慮することになる」としております。
主に3つの考慮要素が指摘されているところ、①遺言者の心身の状況が最も重要な要素であることは、遺言能力の定義に照らして間違いありません。心身の状況として主に想定されるのは認知症の程度となり、認知症スケールの点数が重要となります。認知症スケールの測定方法には様々なものがありますが、裁判例において重視されているのは、ミニメンタルステート検査(MMSE)と改訂長谷川式簡易知能評価スケール(HDS-R)の2つです。
ミニメンタルステート検査(MMSE)は30点満点、27点以下で軽度認知症の疑い、23点以下で認知症の疑いとなり点数が低くなるほどにその疑いが強くなります。
改訂長谷川式簡易知能評価スケール(HDS-R)は、30点満点で20点以下の場合に認知症の疑いが認められ、こちらも同じく点数が低くなるほどにその疑いが強くなります。
以下では認知症の程度を認知症スケールに基づいて軽い場合、重い場合、不明な場合に分けて、実際の裁判例を概観します。
3 認知症の程度が軽い場合の遺言能力について
⑴ 遺言能力の判断基準
認知症の程度が軽い場合、すなわち認知症スケールの点数が高い場合は、裁判例の傾向として、当然ながら遺言能力を認めるものが多いです。全体の傾向として認知症スケールの点数自体が高ければ(MMSEが27点付近、HDS-Rが20点付近)、それのみで遺言能力を肯定する傾向にあります。
仮に認知症スケールの点数が高いとはいえない中程度の場合、遺言の内容の複雑性や遺言をする動機や経緯に照らして、その合理性を判断します。遺言の内容がシンプルであれば、たとえ認知症スケールの点数が中程度であっても遺言能力を肯定する傾向にあります。
対して遺言の内容が複雑になるほど、遺言者がその内容を理解して遺言を残したのか疑義が生じることから、遺言能力が否定される傾向にあります。
また遺言をする動機として、遺言の内容によって利益を受ける相続人との従前の関係性や、当該遺言の前に別の遺言があった場合に内容が変遷した場合の合理性等、遺言者以外の意思が介在したおそれがある場合には、相続人が誘導して作成されたものとして遺言能力は否定される傾向にあります。
なお、どの遺言の形式でも遺言の力は必要なことはもちろんですし、公正証書遺言だからといって直ちに遺言能力が肯定されるものではありません。公正証書遺言は公証人が遺言者の遺言能力を確認して作成しますが、それは公証人の判断いすぎません。前記の判断基準に照らして遺言能力が否定される事例も散見されることから注意が必要です。
ここでは認知症スケールの点数が比較的高いにも関わらず遺言能力が否定された事例を紹介します。
⑵ 東京地裁令和3年3月3日(令和元(ワ)25537)
ア 概要
・被相続人の長女である原告が、長男である被告との間で、被相続人がした自筆証書遺言が無効であることの確認を求めた事案。
・遺言は、3ヵ月間の間に以下の経過で3回作成。
〇遺言①、平成30年9月3日作成
→遺産の10分の7を長男、残りを二女に相続させる旨の公正証書遺言
〇遺言②、平成30年9月7日作成
→前記①遺言を撤回し子3人に3分の1づつ相続させる旨の自筆証書遺言
〇遺言③、平成30年11月8日作成
→前記②遺言を撤回し、①を復活させる旨の自筆証書遺言。
・本件の諸事情からすれば、遺言時、被相続人は、財産管理等について主体的に判断することができず、その時々に身近に接している方の親族の意向に容易に感化され、また、記憶障害や物盗られ妄想も手伝って、他方の親族への不信感を抱くなど極めて不安定な状態であり、遺言能力を失っていたと判断。
イ 認知症スケールの点数
HDS-R 19点
ウ 遺言の種類
自筆証書遺言
エ 要点
・認知症の進行により、現実検討能力が低下し、理解力及び判断力が極めて障害された状態であり、加えて、当時、被相続人には、記憶障害及びいわゆる物盗られ妄想が顕著に見られた
・HDS-R19点は軽度認知症であると一応分類されるものの、同検査における重症度分類は参考程度である。また、同検査のような簡易な検査における判定には限度がある。そして医師は精神障害の程度は「中等度」であると診断、また記憶障害は1月時点で既に「高度」なものであったし、物盗られ妄想も、9月時点では、かなり重度なものとなっていた。よってHDS-R検査の結果が判断に影響は与えない。
・遺言によって不利益を被る長女とは、長年にわたって絶縁状態にあり、両者が再会したのは、一連の遺言が行われる直前であった。この点からすれば、原告に遺産を一切相続させない旨の遺言①及び③が遺言能力のあるCの真意から行われたものであり、その余の遺言はこれに反するとも思われるところである。
・しかしながら、絶縁状態にある場合の遺言内容が本件遺言等のようなものとなるのが当然であるとまではいえない。一連の遺言作成の直前とはいえ、長女が被相続人との再会を果たし、その後、入所施設探し等を被相続人のために行っていたこと等、絶縁状態であったとはいえ、遺産を一切相続させないという決断をするほどのわだかまりがあったとは断定できないことを考慮すれば、尚更である。よって、遺言内容から直ちに遺言能力の存在を導くことはできない。
・以上より、本件遺言時、被相続人は、財産管理等について主体的に判断することができず、その時々に身近に接している方の親族の意向に容易に感化され、また、記憶障害や物盗られ妄想も手伝って、他方の親族への不信感を抱くなど極めて不安定な状態であった、すなわち、遺言能力を失っていたものとして遺言③の遺言能力をないものと判示。
4 認知症の程度が重い場合の遺言能力について
認知症の程度が重い場合、すなわち認知症スケールの点数が低い場合、やはり遺言能力を否定する事案が多くなります。遺言能力の判断において心身の状況が一番に考慮されるため、当然の帰結となります。
もっとも認知症の程度が重いことをもって、それだけで遺言能力が否定されるわけではありません。認知症スケール以外の心身の状況(施設での生活実態や介護認定記録、入院中の経過記録等)を考慮したり、遺言の内容が単純であることや遺言の動機として合理性がある事例は、数は少なくなるものの、遺言能力が肯定される事例もあります。
以下では、遺言能力が否定された事例と、肯定された事例をそれぞれ紹介します。
⑴ 遺言能力が否定された事例(東京地判令和元年10月28日(平成30年(ワ)35406))
ア 概要
被相続人の二男で法定相続人である原告が、本件公正証書による被相続人の本件遺言は、被相続人が遺言能力を有していなかったので無効であるとして、被相続人の長男で法定相続人である被告との間で、本件遺言が無効であることの確認を求めた事案
イ 認知症スケールの点数
HDS-R7点(遺言当日)
ウ 遺言の種類
公正証書遺言
エ 要点
・本件公正証書作成当時、被相続人は、認知症を発症しており、事理弁識能力を著しく減退させていたことが推認される。
・被相続人は以前に遺言書を作成し、全てを(遺言無効を主張している)原告に相続させるとしていた。
・問題となっている遺言は、被相続人の有する一切の財産を被告に相続させるというもの、内容が比較的単純といえる。
・しかし本件遺言は、被相続人の財産の一切を被告に相続させ原告には何も相続させないという内容であるところ、そのような内容にする具体的事情は認められない。
・被相続人は、本件遺言をした当時、本件遺言の内容及び効果を理解してこれをする遺言能力を有していなかった。
⑵ 遺言能力が肯定された事例(東京地判平成30年6月13日)
ア 概要
被相続人による遺産全てを孫に遺贈するとの遺言を争った事案において、認知症スケールの点数は低くとも、生活状況や遺言の内容の単純さからすると、被相続人の認知能力に問題はなかったとする事例。
イ 認知症スケールの点数
HDS-R8点(ただし医師は、穏やかなので問題なく、このままフォローすると判断し、特段の対応は取られなかった)
ウ 遺言の種類
自筆証書遺言
エ 要点
・長谷川式スケールの点数は確かに低いものの、簡易な検査方法であって、被検者の意欲や集中力が十分でないときには実際よりも得点が低くなるためこれだけでは認知症の診断を下すことはできないとされていることが認められている。
・長谷川式の検査結果を受けても特段の対応は取られていないことや、被相続人が職員や入所者との意思疎通に問題があったという形跡がなく、かえって、職員や他の入所者に積極的に話しかけるなどして活動的に過ごしていたことが認められる。
・被相続人は、本件遺言書の作成当時、日常の意思決定や判断が可能な程度の認知能力を有していたものと認めるのが相当である。
5 認知症の程度が不明な場合の遺言能力について
最後に、認知症スケールの点数が不明な場合、遺言能力の判断に当たっては、心身の状況が最も考慮される以上、施設での生活実態や介護認定記録、入院中の経過記録等を参照して、まずは遺言当時の心身の状況を検討する必要があります。
心身の状況が安定しておらず、徘徊や記憶障害、物盗られ妄想等が見受けられた場合、遺言内容の単純さや遺言の動機の合理性を考慮して、遺言能力が判断されます。
⑴ 東京地判平成24年5月17日(平23(ワ)14295号等)
ア 概要
遺言作成当時の遺言者は認知症であり、その他の心身の状況に照らすとその意思能力に問題があったと推認でき、これに先立つ遺言の内容も変遷し、本件遺言を含む各遺言の内容が変遷した合理的理由も見当たらず、遺言が被相続人の真意に基づくものと認め難い旨判示。
イ 認知症スケールの点数
不明
ウ 遺言の種類
自筆証書遺言
エ 要点
・平成14年に公正証書遺言、平成16年に前遺言を取り消す意思表示、平成18年に自筆証書遺言を作成。
・医師の診断書を参照すると、遺言作成当時、認知症を発症しており,同認知症が強度であるためコミュニケーションが全くとれない状態である,同認知症の中核症状について,短期記憶は問題あり,日常の意思決定を行うための認知能力は見守りが必要,自分の意思の伝達能力は具体的要求に限られる,同認知症の周辺症状として,妄想,昼夜逆転,暴言,介護への抵抗があるとの意見。
・本件遺言の内容自体は単純。
・しかし最初の遺言からの変遷内容に合理的な理由は見あらない。
・被相続人の真意をうかがい知ることができないため、遺言は無効。
6 結語
遺言の無効を主張する場合、遺言作成当時の事理弁識能力を示す直接的な証拠がない以上、周辺事情を積み上げて遺言者の遺言能力を立証しなければなりません。お困りの場合はお近くの法律事務所にご相談されてみてください。
以上