遺産分割協議後における相続放棄

【家事|相続放棄|熟慮期間】

質問

 私の父は約1年前に亡くなりました。相続人は、母、兄、そして私の3人でした。遺産分割協議の結果、母と私は相続を希望せず、兄が父の遺産をすべて取得することになり、その内容で遺産分割協議書も作成しました。私は、自分は何も相続していないので、父に関する問題はすべて終わったものと思っていました。

 ところが、最近になって、父の債権を譲り受けたという債権回収会社から突然連絡があり、「お父様には生前300万円の借金があり、その債権を当社が譲り受けた。あなたも相続人である以上、返済義務があるので支払ってほしい。」と請求されました。

 私は、父にそのような借金があることは全く知りませんでしたし、遺産はすべて兄が相続しているので、自分には関係ないと思っていました。今からでも相続放棄をすることはできるのでしょうか。また、遺産を取得していない私も、この300万円を支払わなければならないのでしょうか。

回答

 相続人が遺産分割協議を成立させ、その内容に従って相続財産の帰属を確定させた後は、法定単純承認が成立するため、原則として相続放棄をすることはできません。また、被相続人の借金などの可分債務は、相続開始と同時に法定相続分に応じて各相続人に承継されるため、遺産を取得していない相続人であっても、債権者に対しては、自己の法定相続分に応じた範囲で、支払義務を負うことになります。そのため、本件でも、お父様に300万円の借金が存在するのであれば、原則として、相談者様も、法定相続分に応じた範囲で、その返済義務を負うことになります。

 しかしながら、本件のように、被相続人には債務が存在しないものと信じて遺産分割協議を成立させ、その後になって初めて多額の相続債務の存在が判明したような場合には、遺産分割協議に錯誤があったとして、これを取り消すことができる可能性があります(民法95条 大阪高裁平成10年2月9日決定)。そして、遺産分割協議の錯誤取消しが認められる場合には、法定単純承認の効果が発生せず、相続放棄をすることができることになります。

 本件では、相談者様がお父様の債務の存在を認識していなかった経緯や、そのことが遺産分割協議の重要な前提となっていたかに加え、その誤認について重大な過失がなかったといえるかなど、錯誤取消しの要件を満たすかを個別具体的に検討する必要があります。これらの事情によっては、遺産分割協議の錯誤取消しを前提として、相続放棄が認められる余地がありますが、その可否は事案ごとの事情によって判断されます。

 具体的な手続きとしては、相続放棄の申述書を被相続人の最後の住所地を管轄する家庭裁判所に提出します。一般的に相続発生後から3か月以内であれば、そのまま受理されるのが普通ですが、期間を経過している場合や、ご相談のように遺産分割協議をしている場合などは単純承認に当たらないか、裁判所から事情を聴かれることになります。

解説

1 相続人の範囲、順位及び法定相続分

  相続とは、被相続人が死亡したときに、その財産の全部を相続人が承継することをいいます(民法882条参照)。これにより、被相続人が有していた預貯金や不動産などの積極財産はもとより、借金などの消極財産(債務)も、相続人に承継されることになります(同法896条)。

  相続人には、子(同法887条1項)や直系尊属(同法889条1項1号。なお、より近い等親の直系尊属がいれば、その者が優先されることになり、それより遠い等親の直系尊属は、相続人になることはできません。)、兄弟姉妹(同項2号)という血族相続人のほか、配偶者(同法890条)が含まれます。

  このうち、配偶者は常に相続人となる一方、血族相続人については、被相続人の死亡時に生存している最も順位の高い者が相続人となります。すなわち、子がいる場合は、子が第1順位の相続人となり、子がおらず、直系尊属がいる場合は、直系尊属が第2順位の相続人となり、子も直系尊属もおらず、兄弟姉妹がいる場合は、兄弟姉妹が第3順位の相続人となります。

  また、相続人が複数いる場合には、各相続人が取得する相続分は、民法によって定められています(同法900条)。これを法定相続分といいます。配偶者と子が共同で相続人となる場合には、配偶者の法定相続分は2分の1、子の法定相続分は全体で2分の1となり、子が複数いるときは、その相続分を均等に分けます(同条1号、同条4号)。

  本件では、お父様の配偶者であるお母様は、常に相続人となり、お父様の子である相談者様及びお兄様は、第1順位の血族相続人に当たります。そのため、お父様の相続人は、お母様、相談者様及びお兄様の3名となります。また、法定相続分は、お母様が2分の1、相談者様及びお兄様がそれぞれ4分の1となります。

2 相続債務と遺産分割協議

 ⑴ 相続債務の承継

   相続が開始されると、上記のとおり、被相続人が有していた預貯金や不動産などの積極財産はもとより、借金などの消極財産(債務)も、相続人に承継されることになります(民法896条)。

   そして、金銭債務のような可分債務は、その性質上、債務を分割して履行することが可能であり、各相続人が自己の法定相続分に応じた範囲で履行しても、債権者に不利益は生じません。そのため、相続開始と同時に、法律上当然に各相続人へ法定相続分に応じて分割承継されるものと解されています(最高裁昭和34年6月19日判決)。これにより、遺産分割が終了するまで債務の帰属が不明確となる事態を避け、債権者が各相続人に対して直ちに請求できるという法的安定性・取引の安全も確保されます。

   したがって、本件では、お父様に300万円の借金が存在したのであれば、その債務は、相続開始時に、お母様が2分の1(150万円)、相談者様及びお兄様がそれぞれ4分の1(各75万円)の割合で承継したことになります。

 ⑵ 遺産分割協議と債権者との関係

   遺産分割協議とは、相続人が複数いる場合に、被相続人の相続財産について、各相続人が具体的にどの財産を取得するかを定める手続をいいます。これにより、相続人は、例えば、特定の相続人が被相続人の債務をすべて引き受ける旨を合意することもできます。

   しかしながら、このような合意は、あくまで各相続人間における負担割合を定めるものであり、債権者の承諾がない限り、債権者に対し、その効果を主張することはできません。なぜなら、債務者を他の者に変更し、従前の債務者を債務から免れさせるためには、免責的債務引受けとして債権者の承諾を要するからです(民法472条)。

   したがって、特定の相続人が被相続人の債務をすべて引き受けるという内容の遺産分割協議をしたとしても、債権者がこれを承諾していない限り、債権者は、各相続人に対し、法定相続分に応じた債務の履行を請求することができます。

3 相続放棄と遺産分割協議

  相続放棄とは、相続人が相続開始によって生じた一切の権利義務を承継しないこととする制度です(民法938条)。これにより、相続放棄をした者は、初めから相続人とならなかったものとみなされます(同法939条)。

  相続放棄をするためには、「自己のために相続の開始があったことを知った時」から3か月以内(熟慮期間)に、家庭裁判所に対し、その旨の申述をしなければなりません(同法915条1項)。この「自己のために相続の開始があったことを知った時」の解釈については、過去の裁判例により、相続人が相続債務の存在を認識した時、又は、通常これを認識し得べき時を、熟慮期間の起算点とするなど、相続人の認識状況に応じた柔軟な判断がされています(福岡高裁平成27年2月16日決定)。

  しかしながら、熟慮期間内であっても、相続人が相続財産の全部又は一部を処分した場合など、法定単純承認事由に該当するときは、相続を単純承認したものとみなされ、相続放棄をすることができなくなります(民法921条1号)。

  上記のとおり、遺産分割協議とは、相続人が複数いる場合に、被相続人の相続財産について、各相続人が具体的にどの財産を取得するかを定める手続をいいます。このような遺産分割協議を成立させ、自己の法定相続分に相当する相続財産を他の相続人に取得させる旨の合意をした場合には、実質的には、自己が有していた相続財産上の権利を処分したものと評価され、法定単純承認事由に該当すると解されています。

  したがって、相続人が遺産分割協議によって相続財産の帰属を確定させた後に、相続債務の存在を理由として相続放棄をすることは、原則として認められません。

4 遺産分割協議の錯誤取消し

 ⑴ 錯誤取消しを認めた裁判例

   それでは、本件のように、被相続人に債務があることを全く認識していなかった場合に、遺産分割協議に錯誤があったとして、これを取り消した上、相続放棄をすることはできないのでしょうか。

   この点、大阪高裁平成10年2月9日決定は、被相続人には債務が一切存在しないと信じて、他の相続人が被相続人の遺産を全て取得するという内容の遺産分割協議を行った事案において、「抗告人らが前記多額の相続債務の存在を認識しておれば、当初から相続放棄の手続を採っていたものと考えられ、抗告人らが相続放棄の手続を採らなかったのは、相続債務の不存在を誤信していたためであり、前記のとおり被相続人と抗告人らの生活状況、Bら他の共同相続人との協議内容の如何によっては、本件遺産分割協議が要素の錯誤により無効となり、ひいては法定単純承認の効果も発生しないと見る余地がある。」と判旨しました。

   この裁判例の考え方によれば、遺産分割協議に錯誤があったとして、これを取り消すことができる場合は、例外的に、法定単純承認の効果が発生せず、相続放棄をすることができることになります。

 ⑵ 錯誤取消しの要件と本件への当てはめ

  ア 錯誤とは、意思表示をした者の真意と表示とが一致していないにもかかわらず、その不一致について本人に認識がない状態をいいます。要するに、意思表示をする際に勘違いがあったことを意味します。

    意思表示に錯誤があった場合には、瑕疵ある意思表示をした者又はその代理人若しくは承継人に限り、その意思表示を取り消すことができます(民法95条1項、同法120条2項)。

    錯誤には、①意思表示に対応する意思を欠く錯誤と、②表意者が法律行為の基礎とした事情についての認識が真実に反する錯誤(動機の錯誤)があります。もっとも、動機の錯誤については、表意者が法律行為の基礎とした事情が法律行為の基礎とされていることが表示されていたときに限り、取り消すことができます(同法95条2項)。

    ただし、錯誤が表意者の重大な過失によるものであったときは、意思表示を取り消すことができません(同条3項)。ここでいう重大な過失とは、表意者の職業、行為の種類、目的などに応じて、普通にすべき注意を著しく欠くことをいいます。

  イ 本件では、相談者様は、お父様には債務が存在しないものと認識し、自らは遺産を取得せず、お兄様が遺産を全て取得する内容の遺産分割協議を成立させたものといえます。もっとも、その後、お父様に300万円もの借金が存在していたことが判明したのであれば、「被相続人には債務が存在しない」という認識は、遺産分割協議の基礎とした事情についての認識が真実に反していたものといえ、動機の錯誤に当たるものと考えられます。

    また、相談者様は、お父様に債務が存在しないことを前提として、遺産を取得しないという判断をしたものと考えられるため、この事情は遺産分割協議の基礎とされていたものと認められます。他の相続人も、同様の前提の下で遺産分割協議を成立させたといえるのであれば、その事情は法律行為の基礎とされていることが表示されていたものと評価することもできるでしょう。

    さらに、相談者様が通常期待される程度の調査を尽くしたにもかかわらず、お父様の債務の存在を知ることができなかったのであれば、その錯誤が重大な過失によるものということはできません。

    したがって、本件では、遺産分割協議を錯誤によって取り消すことができる可能性があります。そして、前記大阪高等裁判所平成10年2月9日決定の考え方によれば、遺産分割協議が錯誤によって取り消される場合には、法定単純承認の効果は生じないため、相談者様は、相続放棄をすることができるでしょう。

5 さいごに

  以上のとおり、既に遺産分割協議が成立している場合には、法定単純承認事由に該当するものの、これを錯誤によって取り消した上で、相続放棄をすることができる可能性があります。

  相続放棄の申述書を家庭裁判所に提出する際、単純承認に該当する事由がないことを記載する必要がありますから、遺産分割協議が完了している旨の記載をすると原則として申述は受理されません。そこで、錯誤無効に関する詳細な説明と資料を添付する必要が生じます。どのような書類が必要かは具体的な検討が必要ですから弁護士に相談が必要です。

  但し、遺産分割協議の錯誤無効を理由に、相続放棄申述が受理された後しても、放棄の効力が確定するわけではないこと注意が必要です。債権者は相続放棄の無効を主張することができるからです。

  とはいえ、相続放棄をした後、債権者から法定相続分に応じた債務の履行(75万円の支払い)を請求された場合には、相続放棄申述受理通知書又は相続放棄申述受理証明書を提示することにより、通常は、債権者もその請求を断念するものと考えられます。

  但し、相続放棄の申述が受理されたからと言って、相続放棄の有効であることが確定するわけではありませんから、債権者が請求を維持して訴訟を提起し、相続放棄の効力を争ってきた場合には、その訴訟手続において、遺産分割協議の錯誤取消しについて改めて主張・立証する必要があります。相続放棄の申述を家庭裁判所が受理することの意味は、放棄という権利を失う行為が相続人本人の意思によるものかを家庭裁判所が公証、確認する、ということにあり、訴訟手続きではないので放棄が有効か否かは確定していないからです。

参考条文

【民法】

第95条(錯誤)

1 意思表示は、次に掲げる錯誤に基づくものであって、その錯誤が法律行為の目的及び取引上の社会通念に照らして重要なものであるときは、取り消すことができる。

 ① 意思表示に対応する意思を欠く錯誤

 ② 表意者が法律行為の基礎とした事情についてのその認識が真実に反する錯誤

2 前項第二号の規定による意思表示の取消しは、その事情が法律行為の基礎とされていることが表示されていたときに限り、することができる。

3 錯誤が表意者の重大な過失によるものであった場合には、次に掲げる場合を除き、第一項の規定による意思表示の取消しをすることができない。

 ① 相手方が表意者に錯誤があることを知り、又は重大な過失によって知らなかったとき。

 ② 相手方が表意者と同一の錯誤に陥っていたとき。

4 第一項の規定による意思表示の取消しは、善意でかつ過失がない第三者に対抗することができない。

第120条(取消権者)

1 行為能力の制限によって取り消すことができる行為は、制限行為能力者(他の制限行為能力者の法定代理人としてした行為にあっては、当該他の制限行為能力者を含む。)又はその代理人、承継人若しくは同意をすることができる者に限り、取り消すことができる。

2 錯誤、詐欺又は強迫によって取り消すことができる行為は、瑕疵かしある意思表示をした者又はその代理人若しくは承継人に限り、取り消すことができる。

第472条(免責的債務引受の要件及び効果)

1 免責的債務引受の引受人は債務者が債権者に対して負担する債務と同一の内容の債務を負担し、債務者は自己の債務を免れる。

2 免責的債務引受は、債権者と引受人となる者との契約によってすることができる。この場合において、免責的債務引受は、債権者が債務者に対してその契約をした旨を通知した時に、その効力を生ずる。

3 免責的債務引受は、債務者と引受人となる者が契約をし、債権者が引受人となる者に対して承諾をすることによってもすることができる。

第882条(相続開始の原因)

 相続は、死亡によって開始する。

第887条(子及びその代襲者等の相続権)

1 被相続人の子は、相続人となる。

2 被相続人の子が、相続の開始以前に死亡したとき、又は第八百九十一条の規定に該当し、若しくは廃除によって、その相続権を失ったときは、その者の子がこれを代襲して相続人となる。ただし、被相続人の直系卑属でない者は、この限りでない。

3 前項の規定は、代襲者が、相続の開始以前に死亡し、又は第八百九十一条の規定に該当し、若しくは廃除によって、その代襲相続権を失った場合について準用する。

第889条(直系尊属及び兄弟姉妹の相続権)

1 次に掲げる者は、第八百八十七条の規定により相続人となるべき者がない場合には、次に掲げる順序の順位に従って相続人となる。

 ① 被相続人の直系尊属。ただし、親等の異なる者の間では、その近い者を先にする。

 ② 被相続人の兄弟姉妹

2 第八百八十七条第二項の規定は、前項第二号の場合について準用する。

第890条(配偶者の相続権)

被相続人の配偶者は、常に相続人となる。この場合において、第八百八十七条又は前条の規定により相続人となるべき者があるときは、その者と同順位とする。

第896条(相続の一般的効力)

 相続人は、相続開始の時から、被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する。ただし、被相続人の一身に専属したものは、この限りでない。

第900条(法定相続分)

 同順位の相続人が数人あるときは、その相続分は、次の各号の定めるところによる。

 ① 子及び配偶者が相続人であるときは、子の相続分及び配偶者の相続分は、各二分の一とする。

 ② 配偶者及び直系尊属が相続人であるときは、配偶者の相続分は、三分の二とし、直系尊属の相続分は、三分の一とする。

 ③ 配偶者及び兄弟姉妹が相続人であるときは、配偶者の相続分は、四分の三とし、兄弟姉妹の相続分は、四分の一とする。

 ④ 子、直系尊属又は兄弟姉妹が数人あるときは、各自の相続分は、相等しいものとする。ただし、父母の一方のみを同じくする兄弟姉妹の相続分は、父母の双方を同じくする兄弟姉妹の相続分の二分の一とする。

第915条(相続の承認又は放棄をすべき期間)

1 相続人は、自己のために相続の開始があったことを知った時から三箇月以内に、相続について、単純若しくは限定の承認又は放棄をしなければならない。ただし、この期間は、利害関係人又は検察官の請求によって、家庭裁判所において伸長することができる。

2 相続人は、相続の承認又は放棄をする前に、相続財産の調査をすることができる。

第921法(法定単純承認)

 次に掲げる場合には、相続人は、単純承認をしたものとみなす。

 ① 相続人が相続財産の全部又は一部を処分したとき。ただし、保存行為及び第六百二条に定める期間を超えない賃貸をすることは、この限りでない。

 ② 相続人が第九百十五条第一項の期間内に限定承認又は相続の放棄をしなかったとき。

 ③ 相続人が、限定承認又は相続の放棄をした後であっても、相続財産の全部若しくは一部を隠匿し、私にこれを消費し、又は悪意でこれを相続財産の目録中に記載しなかったとき。ただし、その相続人が相続の放棄をしたことによって相続人となった者が相続の承認をした後は、この限りでない。

第938条(相続の放棄の方式)

 相続の放棄をしようとする者は、その旨を家庭裁判所に申述しなければならない。

第939条(相続の放棄の効力)

相続の放棄をした者は、その相続に関しては、初めから相続人とならなかったものとみなす。

判例

(福岡高裁平成27年2月16日決定)

『  (1) 熟慮期間は、原則として、相続人が、被相続人が死亡し、自己について相続の開始があったことを知った時から起算されるべきものであるが、相続人が上記各事実を知った場合であっても、上記各事実を知った時から三か月以内に限定承認又は相続放棄をしなかったのが、被相続人に相続財産が全く存在しないと信じたためであり、かつ、被相続人の生活歴、被相続人と相続人との間の交際状態その他諸般の状況からみて当該相続人に対し相続財産の有無の調査を期待することが著しく困難な事情があって、相続人において上記のように信ずるについて相当な理由があると認められるときには、相続人が上記各事実を知った時から熟慮期間を起算すべきであるとすることは相当でないものというべきであり、熟慮期間は相続人が相続財産の全部又は一部の存在を認識した時又は通常これを認識し得べき時から起算すべきものと解するのが相当である(最高裁昭和五七年(オ)第八二号同五九年四月二七日第二小法廷判決・民集三八巻六号六九八頁参照)。

 また、相続人が相続財産の一部の存在を知っていた場合でも、自己が取得すべき相続財産がなく、通常人がその存在を知っていれば当然相続放棄をしたであろう相続債務が存在しないと信じており、かつ、そのように信じたことについて相当の理由があると認められる場合には、上記最高裁判例の趣旨が妥当するというべきであるから、熟慮期間は、相続債務の存在を認識した時又は通常これを認識し得べき時から起算すべきものと解するのが相当である。』

(大阪高裁平成10年2月9日決定)

『 (3) もっとも、抗告人らは、他の共同相続人との間で本件遺産分割協議をしており、右協議は、抗告人らが相続財産につき相続分を有していることを認識し、これを前提に、相続財産に対して有する相続分を処分したもので、相続財産の処分行為と評価することができ、法定単純承認事由に該当するというべきである。しかし、抗告人らが前記多額の相続債務の存在を認識しておれば、当初から相続放棄の手続を採っていたものと考えられ、抗告人らが相続放棄の手続を採らなかったのは、相続債務の不存在を誤信していたためであり、前記のとおり被相続人と抗告人らの生活状況、Bら他の共同相続人との協議内容の如何によっては、本件遺産分割協議が要素の錯誤により無効となり、ひいては法定単純承認の効果も発生しないと見る余地がある。そして、仮にそのような事実が肯定できるとすれば、本件熟慮期間は、抗告人が被相続人の死亡を知った平成九年四月三〇日ではなく、国民金融公庫の請求を受けた平成九年九月二九日ころから、これを起算するのが相当というべきである。

 (4) そうすると、本件申述を受理すべきか否かは、前記相続債務の有無及び金額、右相続債務についての抗告人らの認識、本件遺産分割協議の際の相続人の話合の内容等の諸般の事情につき、更に事実調査を遂げた上で判断すべきところ、このような調査をすることなく、法定単純承認事由があるとして本件申述を却下した原審判には、尽くすべき審理を尽くさなかった違法があるといわなければならない。なお、申述受理の審判は、基本的には公証行為であり、審判手続で申述が却下されると、相続人は訴訟手続で申述が有効であることを主張できないから、その実質的要件について審理判断する際には、これを一応裏付ける程度の資料があれば足りるものと解される。』