「法の支配」に関する考察 (令和5年10月16日更新)



新銀座法律事務所 所長 弁護士 門馬 博


1、「法の支配」定義に関する私見


 「法の支配 rule of law」とは、「人の支配 rule of man」「力の支配 rule of power」に対応する概念で、「国王といえども神と法の下にある!(The king must not be under man but under God and under the law, because the law makes the king.)」というブラクトン(Henry de Bracton(1210-1268)、13世紀イギリスの法律家、http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_de_Bracton) の格言にもあるように、国は専制君主による独断により統治されるべきではなく、民意を反映した合理的で適正公平な法に基いて統治されるべきである、という考え方です。では、合理的で適正公平な法とは、どういうものでしょうか。

 そもそも、法とは、どういうものでしょうか。勿論、法律は、無数の規則=ルールの集合体ですが、その規則=ルールはど のようにして形成されたのでしょうか。世界最古の法典のひとつであるハンムラビ法典は、慣習法(不文法、不文律)を成文化したものであるといわれてい ます。では、慣習法は、どのようにして定まったでしょうか。私は、当事者個人間の約束(契約・合意)が、その源泉にあると思います。「お金を貸すから 返して下さい」「わかりました」というような、個人間の約束が繰り返され、先例となり、家族間の先例になり、やがて、集落・部族の決まりごとになり、 国のルールになっていったと考えられます。繰り返し約束され、履行されるルールには、当事者を強制する妥当性・合理性が必要です。そして、国のルール になるような決まりごとには、当然ながら、高度の合理性・普遍性が要求されるでしょう。18世紀フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーは「社会契約論」で、よりよい社会を作り出すために、あるべき一般意思を実現する社会契約を磨き続けることを主張しました。

 国の支配者は、法律を制定する際に、法律の内容を個人の自由で恣意的に決めることができるでしょうか。民主的意思決定 が確立していない政治体制においては一応は可能となります。わが国でも、江戸幕府5代将軍綱吉の時代に「生類憐み令(1687年〜1709年)」によ り、殺生してはならない・犬を傷つけてはならない、という規則についてゆき過ぎた運用がなされ、武家・領民を苦しめた事例があります。

綱吉の時代の旗本出身歌学者、戸田茂睡の同時代記「御当代記」第3巻を引用してみましょう。

「御当代になり、犬を御いたわり遊ばさる候に付いて、犬目付けという役人、江戸中は言ふに及ばず、果々をも見歩きて、犬を打ち申し候か、又悪しく あたり候者あれば、町なれば名主に断り、その者の名を聞き所を書付け、又武士屋敷なればその者の主人を聞き、その翌日武士は支配方、町は奉行所よ りことわりあるゆへ、所を払われ籠舎(ろうしゃ=逮捕され牢屋に入れられること)する者多し、増山兵部家来の侍は、犬にくわれ(かまれ)候てその 犬を切殺したる科(とが=罪)に依て切腹す、土屋大和守家来は、犬にくわれ子犬を切たる科に依て、江戸を追払せられて、大和守も延慮(自主的に) にて引込(謹慎)、土井信濃守中間(使用人)は、犬をたたきたる科によって扶持をはなさる(失職した)」

「秋田淡路守下屋敷に居申候侍、五ツニ成候倅(せがれ=息子)、前々相煩(わずらい)養生の術(すべ)これ無き節(ところ)、来る者有り、燕 あらばこの病を治すべきよし申したるゆへ、家の前へ来りける燕を、吹き矢をもって吹きころし申し候御科(とが)により、親子二人小塚原にて斬 罪(死刑)に仰せ付けられ候」

 この法律は、犬に限らず、あらゆる動物や、捨て子、捨て病人、行き倒れ人などの弱い人間をも対象とするもので、現代の動物愛護法や児童 福祉法や生活保護法などにも通ずる素晴らしい理念を持った法律でしたが、一部、行き過ぎた運用が行われていたと伝わります。行き過ぎた内 容・運用の法律はいずれ淘汰され、改正されることになるでしょう。江戸時代の領民にも、生存する権利・幸福追求する権利は認められてしか るべきだからです。

「犬ばかりに限らず、惣て生類人々慈悲の心を本といたし、憐み候儀肝要事」(御当家令条)

 このように、どのような政治権力によっても奪うことができない権利のことを自然権的基本権と言います。人が生まれなが らに有しているべき権利という意味です。このような、どのような政治権力であっても従わなければならない根本規範を自然法と言います。

 数学者が定理を発見するように、科学者が物理法則を発見するように、法律学者及び法律実務家は、合理的で適正公平な自 然法を追求することができるのです。具体的な憲法や法律は、国の規範ですから、当然に、構成員たる国民の十分な審議を経て、民意を反映して定立されな ければなりません。

 このような法に基く統治を、「法の支配」と定義することができます。これは法律の内容をも規定しますので、単なる法治 主義とは異なる概念と言えます。

それでは、消費者金融問題について、法の支配がどのように作用しているか、例を挙げて考えてみましょう。

契約自由の原則(民法91条、民法399条)
金銭消費貸借契約(民法587条)
(ベニスの商人「期限までに金が返せない時は、債務者の身体から肉1ポンドをもらい受ける。」という契約でさえ成立してしまう。)

高利貸による消費者被害
(サラ金ヤミ金による自殺者が出るなど社会問題化した)
(国会審議を通じて、法改正、新法制定が行われた)

利息制限法・出資法・貸金業規正法による修正
(100万円未満の貸付の利率は18パーセントを上限とする。)
破産法・民事再生法による救済
(債務者の財産を配当し、残債務を免除あるいは一部免除する。)
(立法趣旨は、債務者に経済的更生のチャンスを与えること。)

破産法1条 この法律は、支払不能又は債務超過にある債務者の財産等の清算に関する手続を定めること等により、債権者そ の他の利害関係人の利害及び債務者と債権者との間の権利関係を適切に調整し、もって債務者の財産等の適正かつ公平な清算を図るとともに、債務者につい て経済生活の再生の機会の確保を図ることを目的とする。

「適正かつ公平な清算を図る」という言葉が出てきます。破産法の諸規定は、債務超過になってしまった国民の生きる権利を 守るために、民法の原則が「法の支配」によって、一部修正された結果であると言えるでしょう。「法の支配」は、特定の法令に記述し切れる固定した概念 ではありません。法令の制定過程(立法府)や、適用過程(行政府)、裁判過程(司法府)を通じて、常に影響を与え続ける雰 囲気・重力のようなものだと言えるでしょう。


2、「法の支配」の歴史

プラトン

一般に、「法の支配」理念は、紀元前4世紀のギリシャの哲学者プラトンに端を発し、13世紀イギリスのマグナカルタにその源泉があると言われてい ます。プラトン晩年の著作「法律」から引用します(森進一・池田美恵・加来彰俊、邦訳)。

「法律」第4巻、715ページより
「支配権が争奪の的となると、勝利者側は、国事を完全に手中におさめ、敗者側には、敗者自身はもとより、その子孫にすら、支配権をいささかた りとも分かち与えようとはしないものです。いな、他日誰かが支配の座にのぼり、以前に受けた悪を憶えていて、反乱を起こしたりすることがない ようにと、互いに警戒しながら生活を送るものです。  しかし、わたしたちは今こう主張します。そのようなものはもとより国制ではないし、また、国家全体の公共のためを目的として制定されて いないような法律はまことの法律ではない、と。さらに法律が、一部の人のために制定されるような場合、そうした一部の人は、党派者では あっても市民ではなく、また、彼らが言うところの、それら法律の正しさなるものは、空しい言葉にすぎないとも、主張します。  ところで、わたしたちが以上のようなことを主張するというのも、それは、こういう意図から出たことなのです。わたしたちとしては、 あなたの建設される国家の支配権を、誰かが金持であるからといって、その人にゆだねるつもりはありませんし、他のそれに類するもの、 体力や、体の大きさや、家柄などに恵まれているからといって、その人にゆだねるつもりもありません。むしろ、制定された法律に心から 服従し、その服従の点で国内での勝利を占める人、そういう人にこそ、神々への奉仕のつとめをもあたえるべきと主張します。第一位の勝 利者にはその最高のつとめを、また第二位の勝利者にはその第二のものを、そしてそのように順位を守りながら、それにつづく人たちには それぞれ、それにつづくものを割り当てるべきであると、主張するのです。  さて、ふつう世間で支配者と呼ばれている人を、わたしはここで「法律の従僕(しもべ)」と呼びましたが、それはかならずしも、 呼び名の新しさをねらったわけではありません。むしろ、国家の存亡は、なによりもまず、この点にかかっていると考えるからなので す。それというのも、法律が被支配者の地位に立ち、法律が主権を持たぬような国家、そういう国家にあっては、その滅亡は旦夕に 迫っているものと、わたしは見なすのです。反対に、法律が支配者の主人となり、支配者が法律の下僕となっているような国家におい ては、その国家の安全をはじめとして、神々から国家に恵まれる善きことのいっさいが実現されるのを、わたしははっきりと見るから です。」

 ここで、プラトンは、@法律の内容は国民全体の公共の利益を目的として制定されなければならない、A法律が主権を持たぬよ うな国は滅びるであろう、と、明確に主張しています。

 また、たとえ民主制であっても、法律に服従しまいとする身勝手な自由を生じてしまえば、不幸を生ずると警告していま す。アテナイ(現在のアテネ)の衆愚政治を反省した考え方ですが、これは、現代でもあてはまる教訓でしょう。

「法律」第3巻、701ページより
「この身勝手な自由につづいて生じてくるものは、おそらく、支配者への服従をいさぎよしとしない自由であり、さらにその自由につづいて、父母や年 長者への服従と戒めから逃れようとする自由なのです。それも終局に近づくと、法律に服従しまいとする自由が生じ、ついに終局そのものに至って、誓 約や信義、総じて神々を重んじまいとする自由が生じるのです。そうなると、物語にいう、昔の巨人族(ティタン)の本性を模倣してその身に示しなが ら、巨人たちと同じかのところに逆戻りし、ついに不幸のやむことのない、つらい生を送りつづけることになるでしょう。」

 このプラトンの見解には、社会秩序を守るために「悪法も法なり」として、回避することもできた死刑を受容した師であるソクラテスの影響も あったことでしょう。

マグナカルタ

 13世紀初頭イングランドでは、ジョン王の失政を発端として、1215年にマグナカルタ(大憲章)が、王と対立する封 建諸侯(バロン)との間の合意文書として作成されました。二つの章を引用します(原典はラテン語、WSマッケクニ英訳、禿氏好文邦訳)。

第39章 いかなる自由人も、彼の同輩の合法的裁判により、また国法によるのでなければ、逮捕され、あるいは投獄され、あるいは侵奪され、あるい は法益剥奪に付され、あるいは流罪に処され、あるいはいかなる方法でも傷害を受けることがなく、しかして、朕が彼を兵力をもって襲うことも、また 彼へ向かって兵力を派遣することもないであろう。
第63章 それゆえに、朕は、イングランド教会が自由であるべきこと、および朕の王国の人々が、前記した自由、権利および認容事項のすべて を、健全にまた平和に、無条件にまた平穏に、完全にまた純粋に、彼ら自身と彼らの相続人たちのために、朕と朕の相続人たちから、あらゆる事情 および場所において、永久に、前記されたところに従って取得し保有すべきことを欲し、かつ断固として命ずる。しかして、上記のすべては、誠意 をもって、かつ悪意なく遵守されるであろうということが、朕の側からも、またバロンたちの側からも宣誓された。朕の治世第17年6月15日、 ウィンザとステインズの間にあるラニミードと呼ばれる牧草地で、上記の、およびその他の多くの者が証人となり、朕の手により下賜せられる。

 上記の39章は、適正手続(デュープロセス)を定めたものと解釈することができますし、最後の章である63章には、王もこの憲章に従う ことが明記されています。妥協の産物であったとはいえ、封建君主制の時代にこのような憲章が定められることは「法の支配」への第一歩とし て重要な意義があったと思います。

ハンムラビ法典

 しかし、マグナカルタ以前でも、人類最古の法典のひとつといわれるメソポタミア文明のハンムラビ法典(ハンムラビ王、紀元前 1792年〜1750年)にも、その萌芽を読み取ることができると思います。ハンムラビ法典の後文(飯島紀、邦訳)の一部を引用しま す。

「アヌや神エンリルがその城楼を高くしたバビロンでは強者が弱者を抑圧せず、孤児や寡婦が正義とされるように、そして天地のよう に基礎が確固とした所のエサギラ神殿では国の判決を決定するために、又国の裁決を調べて不正を正すために、私の重大な言葉を石碑 に書いて、正義の王としての我が像の前に据えたのである。」 「将来の後でも何時でも、国に居る(治める)王が我が碑文に書いた正義の言葉を見守るように。私が明言した国の判決や私が伝 えた国の決定を変えないように。  我が像を削らないように。もしその人が知恵を持つなら、そしてその国に正義の支配を試みるならば、我が碑文に書かれた 言葉に注意するように。  方法や政治について、私が明言した国の判決や伝えた国の決定をこの碑文が彼に示して、彼の黒い頭(国民)を正しく 支配するように。そして彼らに判決を下し、彼らに裁決を決定するように。彼の国から不正 と悪人を根絶するように。彼の人民の福祉を良くするように。私は神シャマシュが正義を贈った正義の王、ハンムラ ビである。」

 ハンムラビ法典の内容自体は、刑法と民法と訴訟法が混在した原始的なものであり、貴族や奴隷を含む階級社 会を定めた法典ですし、死刑の多い過酷な刑法を持つものですが、注目すべき点として、この法典は、@正義と 福祉を実現するために制定されたことが明記されていること、Aハンムラビ王の死後の王(統治者)もこの法典 に従えと明記されていること、が挙げられます。

 この法典には統治機構に対する規範がほとんどありませんので、立憲主義を実現したとは言えませんが、 国王による恣意的な統治ではなく、正義に基く法による統治を目指していることは、現代の「法の支配」に 通ずるところがあると言えるのではないでしょうか。ハンムラビ法典は、ハンムラビ法典碑と呼ばれる高さ 2mほどの石碑に、神(太陽神シャマシュ=正義の神)が玉座に座り、その前にハンムラビ王が礼拝の姿勢 で立っている場面が浮き彫りに表現され、その下に、法典の碑文がびっしりと刻まれているものです。ハン ムラビ王が神から法典を授かった、というインスピレーションもあります。玄武岩という黒光りする硬い石 に彫られていて、法典を永続的に守らせたい、というハンムラビ王の意図を感じることができます。法典碑の現物は、フランスのルーブル美術館に所蔵展示されていますが、東京池袋の古代オリエント博物館や飯田橋の印刷博物館にも精巧な複製品が展示されています。これは、法律に携わる人には是非一度ご覧になることをお勧めしたい逸品です。

十七条憲法

 また、わが国でも、聖徳太子(574〜622年)の時代に制定されたといわれる十七条憲法にも、 その兆しを感じ取ることができると思います(但し文献としての初出は720年完成の日本書紀22巻 「推古紀」)。聖徳太子については、京都知恩院に所蔵されている「上宮聖徳法王帝説」に次のような 記述が見られます。

「上宮聖徳法王帝説」抜粋

小治田宮御宇天皇之世 上宮厩戸豊聰耳命 嶋大臣共輔天下政而興隆三寶 起元興天四皇等寺
制爵十二級 大徳 少徳 大仁 少仁 大礼 少礼 大信 少信 大義 少義 大智 少智

→小治田宮御宇天皇(おはりたのみやにあめのしたおさめたまいしすめらみこと=推古天皇)の世 に、上宮厩戸豊聰耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)、嶋大臣(しまのおおお み=蘇我馬子)と共に天の下の政(まつりごと)を輔(たす)け三寶(仏法僧=観無量寿経の教 え)を興隆し、元興(飛鳥寺)・天四皇(四天王寺)等の寺を起て、爵十二級を制(つく)る、大 徳・少徳・大仁・少仁・大礼・少礼・大信・少信・大義・少義・大智・少智なり。

池邊天皇后 穴太部間人王 出於厩戸之時 忽産生上宮王

→池邊天皇(用明天皇)が后(きさき)、穴太部間人王(あなほべのはしひとおう=穴穂部間 人皇女)、厩戸(うまやと=馬官の小屋)に出(いで)ましし時に、忽ち上宮王を産生(う) みたまいき。

王命幼少聰敏 有智 至長大之時一時聞八人之白言而辧其理 又聞一智八 故号曰厩戸豊 聰八耳命 
 
→王命(みこのみこと)は幼少より聰敏、智有り。長大なる時に至りて(成人して)一時 に八人(やたり)の白(もう)す言(こと)を聞きて其の理を辧ず(聞き分けた)。ま た、一を聞き八を智(し)る。故に号(なづ)けて厩戸豊聰八耳命(うまやとのとよとや つみみのみこと)と曰(い)う。

池邊天皇 其太子聖徳王 甚愛念之 令住宮南上大殿 故号上宮王也 

→池邊天皇(用明天皇)、其の太子(みこ)聖徳王を甚だ愛しと念(おも)い、宮の 南の上の大殿に住まわしめき。故に、上宮王(うえのみやのみこ)と号(もう)す。

小治田天皇御世 乙丑年五月 聖徳王与嶋大臣 共謀建立佛法 更興三寶 即准 五行 定爵位也 七月 立十七餘法也

→小治田天皇(推古天皇)の御世、乙丑(きのとうし)の年の五月、聖徳王と嶋 大臣、共に謀り佛法を建立し、更に三寶を興す。即ち五行(人が常に実行すべき 五つの道=仁義礼智信という荀子の教え)に准(したが)い、爵位を定めたま う。七月、十七餘(あまり=ほど)の法(のり)を立てたまう。

「十七条憲法」抜粋

二曰(二にいわく)
篤敬三宝(篤く三宝を敬え)
三宝者仏法僧也(三宝とは、仏と法と僧なり)
則四生終帰(すなわち四生の終帰)
万国之極宗(万国のおおむねなり)
何世何人非貴是法(いずれの世、いずれの人か、この法を貴ばざらん)
人鮮尤悪(人、はなはだ悪しきもの少なし)
能教従之(よく教うるをもて従う)
其不帰三宝(それ三宝によりまつらずば)
何以直枉(何をもってかまがれるをたださん)

十七曰(十七にいわく)
夫事不可断独(それ事は独りさだむべからず)
必与衆宜論(必ず衆とともにあげつらうべし)
少事是軽(少事はこれ軽し)
不可必衆(必ずしも衆とすべからず)
唯逮論大事(ただ大事をあげつらうにおよびては)
若疑有失(もしやあやまちあらんと疑うべし)
故与衆相弁(ゆえに衆とあいわきまうるときは)
辞則得理(辞すなわち理を得ん)

 ここで、敬うべき三宝のうち、仏は釈迦で、僧は僧侶で、法は、一般には 「釈迦の教え」、であると言われていますが、釈迦の教えは、具体的な経典 を示されているわけではなく、国の統治は、仏教の教えに従って、慈悲に基 いて行われるべきである、という考えが示されています。また、大きな問題 を決めるときは一人で決めてはならない、必ず多くの人々と議論を重ねよと 命じています。

 政教分離原則が定められた現代の日本国憲法とは大きな違いがあるよ うにも読めますが、第2条は特定の宗教に肩入れするという趣旨ではな いでしょう。勿論、当時の大和朝廷の国神・庶民の氏神とも矛盾するも のではないと考えられます。聖徳太子は、多神教である神道思想に対 し、仏教の汎神論的世界観の特質を理解し、神仏習合の第一歩として我 が国における仏教受容の方針を推進したと思います。当時の仏教は、万 国の極宗(おおむね)」と表現されているように、現在の宗教を全部合 算したような世界宗教であった考えると分かりやすいかもしれません。 国の統治は、万国万民が納得するような、適正公平を目標として、慈悲 の精神に基いて運営すべきである、という風に理解することもできると 思います。

 個人的な利害で国を動かすのではなく、万国万民が納得するよう な理想を目指して国を運営せよ、という考え方は、専制君主制を排 し、法の優位を説いた法の支配に通ずるものと言えるのではないで しょうか。

 また、中国の歴史書「隋書」第81巻倭国伝に次のような記 述があり、聖徳太子が対等外交の道具あるいは手段として、仏 教の考え方を利用しようとした形跡であるとされています。こ れは、国政の運営だけでなく、国家間の外交についても「法の 支配」の精神を導入しようと努力していたのかもしれないと私 は考えています。「書を致す」という言葉も、「恙なき(つつ がなき)や」という言葉も、対等な関係を意味する外交用語で あったということです。

隋書、第81巻(列伝46)
大業三年其王多利思北孤遣使朝貢
使者曰聞海西菩薩天子重興彿法
故遣朝拜兼沙門數十人來學彿法
其國書曰日齣處天子至書日沒處天子無恙雲雲
帝覽之不ス謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞

大業三年(西暦607年、推古天皇15年)、日本の王 「多利思北孤(タリシヒコ)」が朝貢使をよこした。使者 (小野妹子と言われています)が言った。海の西の菩薩天 子(隋の煬帝)が重ねて仏法を興したと聞いた。それで、 使者を派遣して朝拝させ、同時に学者数十人を来させて仏 法を学ばせたい。その国書は次のように記されていた。 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙な き(つつがなき)や(お元気ですか)。」などなど。煬帝 はこれを読んで喜ばず、鴻臚卿(外務大臣)に対して言っ た。「野蛮な外国の書に無礼があった。二度と持ってくる な。」

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相論天下徳政

延暦13年(西暦794年)、初の征夷大将軍に大伴弟麻呂を任命し、明治維新まで続いた平安京に遷都し、千年にわたる日本の形をデザインしたとも言える桓武天皇は、最晩年にふたりの参議に議論させ政策を決定した「徳政相論」を行わせたと伝わります。これは天皇親政の時代に実質的な議論による政治が行われた事例として注目に値します。

日本後紀第13巻延暦24年12月7日壬寅条(西暦805年12月31日)

○壬寅。公卿奏議曰。伏奉綸旨。営造未已。黎民或弊。念彼勤労。事須矜恤。加以時遭災疫。頗損農桑。今雖有年。未聞復業。宜量事優矜令得存濟者。臣等商量。伏望所點加仕丁一千二百八十一人。依數停却。又衞門府衞士四百人。減七十人。左右衞士府各六百人。毎減一百人。隼人男女各□人。毎減廿人。雅楽歌女五十人。減卅人。仕女一百十人。減廿八人。停卜部之委男女厮丁等粮。又諸家封祖。□停舂米。交易輕貨。又諸國貢調脚夫。或國役五箇日。或國三箇日。役限不均。労逸各殊。須共役二日。以同苦楽。又備後國神石。奴可。三上。恵蘇。甲努。世羅。三谿。三次等八郡調糸。相□鍬鐵。又伊賀。伊勢。尾張。近江。美濃。若狭。越前。越中。丹波。丹後。但馬。因幡。播磨。美作。備前。備中。備後。紀伊。阿波。讃岐。伊予等國。殊免當年庸。許之。』是日。中納言近衞大将従三位藤原朝臣内麻呂侍殿上。有勅。令参議右衞士督従四位下藤原朝臣緒嗣。与参議左大弁正四位下菅野朝臣真道相論天下徳政。于時緒嗣議云。方今天下所苦。軍事与造作也。停此両事。百姓安之。真道□執異議。不肯聴焉。帝善緒嗣議。即従停廃。有識聞之。莫不感歎。

※意訳
12月7日に公卿が天皇に奏上して言った。「申し上げます。平安京の造営が大変です。庶民が疲弊しております。大変な勤労が懸念されます。庶民を憐れんで恵みを与える必要があります。加えて今や疫病の災難も受けています。農業も養蚕も大きな損害を受けています。今年は豊作のようですが、未だ回復したとは聞きません。宜しく思い量ってよく憐れんで民に救済を与えてください。家臣一同相談しています。伏して望みます、労役1281人分、この数を免除して頂きたい。また、皇居の警護400人、これも70年削減して欲しい。左右の警護各600人も、それぞれ100人減らして欲しい。鹿児島から上京した男女百人の労役も、それぞれ20人減らして欲しい。雅楽や歌い手の女性50人も30人減らして欲しい。宮廷の女中110人も、28人減らして欲しい。占いを司る男女を召し抱えるのもやめて欲しい。代々封じてきた学問諸家に米を支給するのも交易品の布を支給するのもやめて欲しい。また、諸国に課せられる労役も、ある国は5日分で、またある国は3日分であり、不公平です。労役は共に2日にして、苦労を同じにしてやりましょう。また、備後國神石、奴可、三上、恵蘇、甲努、世羅、三谿、三次などの八郡に絹糸や鉄鍬を献上させるのは免除しましょう。また、伊賀、伊勢、尾張、近江、美濃、若狭、越前、越中、丹波、丹後、但馬、因幡、播磨、美作、備前、備中、備後、紀伊、阿波、讃岐、伊予などの国では、労役の代わりの献上品も免除してやりましょう。これを許してください。」この日、中納言で近衞大将従三位藤原内麻呂が上殿して勅を伝えた。参議である藤原緒嗣と、参議である菅野真道に、天下の徳政を相論させた。この時緒嗣は次のように演説した。今、天下の万民を苦しませているのは、軍事(奥州征伐)と造作(平安京造営)です。この両政策を停止して下さい。天下の民を安心させて下さい。真道は異義を唱え、肯定しなかった。桓武帝は緒嗣の提議を善しとしてこれを聞き入れて、すぐに両政策の停止を命じた。これを聞いた有識者達は、ことごとく感嘆したものだ。

歴史学や政治学では、専制君主制や立憲君主制や議会制民主政など政治体制に区分を設けて論じることが多いですが、我が国の桓武朝の8世紀から9世紀の天皇親政の政治体制はどのように分類されるべきでしょうか。私見となりますが、そのような分類は意味が無いと思います。人の支配なのか、法の支配なのか、専制君主制なのか、民主制なのか、そのような二者択一ではなく、為政者が民や臣下の意見を聞いてどのような国の形を目指していたのか、どのような徳政を目指していたのかと思索を巡らすことが大切だと思います。その意味では、桓武天皇末期の日本では人の支配を超克し法の支配を目指した試行錯誤が行われていたと評価できるでしょう。

※参考書籍
「人物で学ぶ日本古代史3平安時代編」、新古代史の会(編)、吉川弘文館
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喧嘩両成敗

日本中世史に出現した世界的にも希有な「喧嘩両成敗法」も、自力救済を禁止し、紛争を未然に防止し、争い事を法的に解決しようとするルールでした。日本中世史研究者前川祐一郎氏・清水克行氏によると、喧嘩両成敗の初見例は、平安時代末期元暦元年(1184年)7月の大和国内山永久寺定書にあるとのことです。次のような規定がありました。

一、もし当山の僧徒、口論・取合いいたすほどの
闘諍(とうじょう)、出来(しゅったい)あるの
ときは、是非の子細を論ずべからず、かの両人を
早く山内より追却すべき事

 喧嘩両成敗で最も有名な、今川氏親(桶狭間の戦いで織田信長に討たれた今川義元の父)が大永6年(1526年)に制定 した領内の分国法「今川かな目録」の8条も引用します。

一、喧嘩におよぶ輩(ともがら)、理非を論ぜず、両方共に死罪に行ふべきなり。

「子細を論ずべからず」、「理非を論ぜず」、両人同罪とするのは現代の我々から見ると暴論にも思えますが、ルールの主眼は「喧嘩をするな」というところにあったと思います。紛争があった場合は、自力救済せず、それぞれの上司に相談するなりして社会秩序を維持したままの、法に基づいた解決を模索すべきだという考え方です。我が国における自力救済禁止の歴史が平安時代にまで遡ることができるというのは極めて興味深いことです。


※参考書籍
「喧嘩両成敗の誕生」、清水克行(著)、講談社
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執権連署制

鎌倉幕府の3代将軍源実朝が建保7年(1219年)に暗殺され、2代執権北条義時も病没した後、初代将軍源頼朝正室北条政子は、「軍営御後 見」として甥の北条泰時(義時長男)と、弟の北条時房を指名しました。時房は後に初代連署として執権となった甥の泰時を補佐する地位となりま したが、翌年の元旦の将軍おう飯(椀飯振る舞いの語源=将軍接待する幕府第一人者の役目、正月二日は泰時の担当だった)を勤めるなど、鎌倉幕 府における第一人者としての地位・権限も有していました。

吾妻鏡 貞應三年甲申(1224年)六月廿八日(6月28日)
武州始被参二位殿御方(武蔵守北条泰時=初代執権時政の孫、2代執権義時の長男、が京都から帰って初めて政子=泰時の叔母のもとを訪れた)
触穢無御憚云云(触ることのできない穢れの憚りは無いというので人事を決めるのに問題は無い)
相州武州為軍営御後見可執行武家事(相模守北条時房=政子の弟と武蔵守北条泰時は、将軍の「軍営御後見」として武家の諸事を執り行うように)
之旨有被仰云云(この旨仰せ付けられたという)

鎌倉幕府期も天皇の生前譲位が原則であり、譲位後の天皇が数代存命している期間も珍しくありませんでした。つまり鎌倉期に、上皇(院、治天の 君)→天皇→征夷大将軍→執権→連署という、世界でも類例を見ない5重権力体制が稼働したことになります。さらに言えば、前将軍が「源氏長 者」の地位にとどまって政権を掌握し続ける事例が足利義満、足利義持、足利義政、徳川家康などに見られましたので、
上皇(院、治天の君)→天皇→源氏長者(前征夷大将軍)→ 征夷大将軍→執権→連署という6重権力体制の可能性もあったことになります。時代によって、摂政や関白や太閤(前関白)や太政大臣が実権を 握った時代もありました。

※源氏長者は、天皇の実子である親王が姓を賜り臣籍降下し た源氏一族の統率者の称号で、一族の官位推挙権などを有していました。氏長者の中でも源氏長者は准皇族である源氏の長として高い権威を有して いました。

これらのことは権力の集中=個人の専横を防止するための多 層合議制を導入 したものと捉えることができ、13世紀から江戸時代に至るまで我が国における「人の支配」からの超克を企図した努力工夫であったと評価することもできます。

イギリスで1215年にマグナカルタが成立したのと同じ時期に、日本では別の形で人の支配の弊害を乗り越えようとする試行錯誤が行われていた ことは興味深いことです。このような権力の多重構造は、摂政や院政や老中など日本史において何度も出現しており、日本社会の安定性を維持する ための独特の智恵、特殊な性質と考えることができます。

※参考書籍
「将軍・執権・連署 鎌倉幕府権力を考える」日本史資料研究会編、吉川弘文館
「源氏長者 武家政権の系譜」岡野友彦、吉川弘文館

殿中御掟九箇条

16世紀戦国時代を終わらせ織豊政権を打ち立てた織田信長も「法の支配」に注意を払った為政者でした。永禄11年1568年9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、足利義昭を室町幕府の第15代将軍に擁立しましたが、同時に足利将軍の権力を牽制するために、殿中御掟9か条を義昭に要求して承認させました。このうち、5条から8条までが裁判(公事)に関する法令規範です。

殿中御掟九箇条(仁和寺文書)
・不断可被召仕輩、御部屋集、定詰衆同朋以下、可為如前々事
・公家衆、御供衆、申次御用次第可参勤事
・惣番衆、面々可有祗候事
・各召仕者、御縁へ罷上儀、為当番衆可罷下旨、堅可申付、若於用捨之輩者、可為越度事

・公事篇内奏御停事之事(公事篇ノ内奏ハ御停止ノ事)

・奉行衆被訪意見上者、不可有是非之御沙汰事(奉行衆ニ意見ヲ訪ネラルル上ハ、是非ノ御沙汰有ルベカラズ)

・公事可被聞召式目、可為如前々事(公事ヲ聞コシ召サルベキ式日、前々ノ如クタルベキ事)

・閣申次之当番衆、毎事別人不可有披露事(申次ノ当番衆ヲサシオキ、毎事別人ノ披露有ルベカラザル事)

・諸門跡、坊官、山門集、従医陰輩以下、猥不可有祗候、付、御足軽、猿楽随召可参事


第5条の公事篇というのは訴状というような意味でしょうか。内奏というのは、天皇または将軍に対して直接報告するという意味でしょうか。訴状を直接義昭に持っていき恣意的に判決することはできない、という要求です。これは訴訟の申し立て手続きを定めた現代の刑事訴訟法・民事訴訟法を彷彿させるものです。

第6条の意見を訪ねる時の御沙汰というのは、予め裁判の結論である是非を命じながら意見を聞いてはならないということで、専門職である奉行衆の率直な意見を尊重すべきことを求めています。これは司法権の独立及び裁判官の独立を定めた日本国憲法76条3項「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」を思い出させるものです。また、これを具体化した刑事訴訟法318条と民事訴訟法247条の自由心証主義をも想起させるものでした。

刑事訴訟法第318条 証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる。

民事訴訟法第247条 裁判所は、判決をするに当たり、口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果をしん酌して、自由な心証により、事実についての主張を採用すべきか否かを判断する。

第7条の公事を聞こし召さるべき式日というのは、現代で言えば「口頭弁論期日」の事だと思いますが、これを勝手に義昭が前後させることはできないと要求しています。我々も日々の裁判で裁判所と期日調整をして、期日が決まったら「口頭弁論期日請書」をFAXで送信しているのですが、この期日というのは、事前に争点や証拠を用意して準備書面などの主張書面を作成する攻撃防御方法の前提条件となるものであり、公平公正な裁判のためには極めて重要な要素であると日々痛感しておりますので、信長がこの点に着目した慧眼には驚かされます。

第8条の「披露」というのは、書面を披露する、つまり、書面を取り次ぐということであり、
現代であれば裁判所の担当部署、民事何部とか、担当書記官のことであり、これを恣意的に変えてはならないという要求です。訴訟手続きにおける書面取り扱い手続きの重要性は、日本国憲法31条「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」という適正手続保障の条文を見ても明らかなことです。信長が適正手続きdue process の重要性に気付いていたというのは買い被りが過ぎるかもしれませんが、恣意的な裁判(人の支配)を抑止したいという気持ちが当該条項に表れていると思います。

※参考書籍
「人物叢書織田信長」池上裕子、吉川弘文館


禁中并公家中諸法

 17世紀、戦国時代を終結させ「元和偃武(武器をしまい平和をはじめる)」の時代が開かれた江戸幕府の初期に公布された「禁中并公家中諸法 度(禁中並公家諸法度、1615年)」の一番最初に、次のような条文があります。この法度は、当時の先代将軍徳川家康、現将軍徳川秀忠、前関 白二条昭実(直後に関白再任)の連署によって公布されたと伝わります。当時の天皇は後水尾天皇です。家康は、起草にあたって、摂関家をはじめ とする公家衆から、あらゆる古来の蔵書の写しを提出させ、南禅寺住職であった金地院崇伝らに起草させたと伝わります。全く新しい法度を制定し て無理やり押し付けるというよりは、日本古来の文物に依拠しつつ、時代に合わせて修正を加えた、という体裁を目指したものと思われます。

一 天子諸芸能之事、第一御学問也、不学則不明古道、而能政致太平、
  貞観政要明文也、寛平遺誡、雖不窮経史、可誦習群書治要云々、
  和歌自光孝天皇未絶、雖為綺語、我国習俗也、
  不可棄置云々、所載禁秘抄、御習学専要候之事

 天子(天皇)諸芸能(学問・芸術・技能)の事、第一御学問なり。
 学ならずんばすなわち古道(昔の聖人・賢人の行い)明らかならず、
 しこうして(学をなして)政(まつりごと)をよくし、太平に致すべし。
 (これ)「貞観政要(じょうがんせいよう=8世紀唐代の治道規範書)」の明文なり。
 「寛平遺誡(かんぴょうゆいかい=9世紀宇多天皇譲位の際の心得書)」に(いう)、
 「経史(けいし=四書五経歴史書の全て)」をきわめずといえども、
 「群書治要」(ぐんしょちよう=7世紀唐代の帝王学書)を誦習す(そらんじてまなぶ)べしと云々、
 和歌、光孝天皇(9世紀)よりいまだ絶えず、
 綺語(きご=美しい詩歌)たりといえども、我が国の習俗なり、棄(す)て置くべからずと云々、
 「禁秘抄(きんぴしょう=13世紀順徳天皇の心得書)」に載せる所、御習学もっぱら要(かなめ)に候事

 「天子(天皇)は、まず第一に学問を修める」、ということは、間接的に、政治は武家社会(幕藩体制)に委任するという意味も含まれてい ると考える事ができます。この条文は、現代の日本国憲法の象徴天皇制にも通ずる画期的な条文だったと思います。良い政治、天下泰平のため に、歴史に学び、昔からの学問を修めるべきである、ということは、専制君主制の恣意的な政治とは対極をなすものですから、法の支配の考え 方に通ずるものがあったと評価できると思います。当然、武家社会においても、学問をなすことが重要視されます。同時期に公布された武家諸 法度の第1条にも「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムベキ事」という文言があります。当時の起草者らは(金地院崇伝や、家康も)、プラトンのこと もマグナカルタのことも知らなかったでしょう。天下泰平のために、どのような統治が行われるべきか、真剣に考えた結果として、このような 条文を起草したのだと思います。和歌の中にも政治の真実が含まれているから軽んじてはならない、とも読むことができ、とても風流な考え方 だと思います。

 私は、ここに、西洋的な「法の支配」とは異なる、もうひとつの、東洋的な、そして極めて日本的な「法の支配」の源泉のひとつを感じ とることが出来ると思います。諸説ありますが、日本の皇室天皇制が現存する世界最古の王室であることは間違いありません。古代、近 代、現代に至るまで、我が国でも、諸外国と同様に様々な内紛や内乱や対外戦争を経てきましたが、それでもひとつの皇室を継続してきた ということは、「法の支配」の側面からみても意義の深いことだと思います。

大政奉還

 慶応3年(1867年)10月12日、江戸幕府将軍徳川慶喜は、京都二条城黒書院に幕府の大小目付以下諸役人を集め大政奉還を 説明して、次のように訓示したということです。

「徳川慶喜公伝 巻四」抜粋

「神祖(徳川家康公)は天下の安からんが為に政権を執らせられしにて、天下の政権を以って徳川家に私(わたくし)せられしに あらず、我等は又天下の安からんが為に、徳川家の政権を朝廷に還(かえ)し奉(たてまつ)るなり、取捨異なれりといへども、 天下を治め朝廷に奉ずるの意は一つなり、其方(そのほう)どもも能(よ)く此(この)意を体認すべし。」

 幕府を開いて政権を執ることも、将軍職を返上して幕府を閉じることも、同じく天下安寧を目的とすることであると慶喜は 説いているわけです。普通選挙や民主政が施行される前の封建時代の政権において、大政奉還や江戸城無血開城のように、戦 火を経ることなく(あるいは戦火を最小限に留めて)、自主的に政権が交代することは極めて稀であると言えるでしょう。私 は、徳川慶喜公が水戸藩が編纂していた「大日本史」をはじめとする過去の歴史に学び、「政権とは私利私欲で恣意的に運営 するものではない」、という日本的な「法の支配」の感覚を体得することができていたために、このような決断ができたので はないかと考えます。

 本稿の範囲を超えるので詳述しませんが、これらの歴史は、すべて、それに先行する暗い時代の教訓として生起したこ とです。「法の支配」が存在しない歴史の場面において、過去にどれほど、人権侵害や戦争や虐殺や無秩序が社会を覆っ たことでしょうか。それを反省し、その反作用として、「法の支配」の理念が培われていったのです。「法の支配」は人 類が多くの犠牲の上に獲得した貴重な財産(法的技術)であると考えます。

パール判決書

第二次世界大戦後の極東軍事裁判(東京裁判)において、全員無罪の反対意見を提出したパール判事の判決書も、極限状況における法の支配を思い起こさせるものでした。

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※判決原文

Judgment of The Honorable Justice Pal, Member from India, Page 1003

I have al ready given my view of the character of the so-called international community at least as it stood on the eve of the second World War.

It was simply a coordinated body of several independent units and certainly was not a body of which the order or security could be said to have been provided by law.

Keeping all this in view it may safely be asserted that the nations have not as yet considered the conditions of international life ripe enough for the transposition of principles of criminality into rules of law in international life.

I cannot thererore read into the consent conveyed through adopting the general principles for their applitcation by the Permanent Court of International Justice, a consent to effectuate any transposition of the principles of criminal responsibility into rules of law in international life.

I do not consider this as sufficiently indicative of the requisite consent for our present purpose.

※日本語抄訳(カッコ内は筆者補足)

インド人パール判事の判決書,1003ページ

少なくとも第二次世界大戦前夜における、いわゆる国際社会の性格についての私の見解は、すでに述べたとおりである。

国際社会は、いくつかの独立した単位からなる単なる調整機関であり、秩序や法益保護が法律によって規定された状態とは言い難いものであった。

このようなことを考慮すると、国際的な刑罰法原則を「法規範=法の支配」に移行するには、国際社会の人びとの条件が十分に熟しているとは、まだ各国は考えていなかったと断言してもよいだろう。

したがって、常設国際司法裁判所による一般原則の採択を通じて伝えられた同意の中に、刑事責任の原則を国際社会の各個人が従うべき「法規範=法の支配」に移行することに同意するという意味を読み取ることはできない。

私は、これが(有罪判決を下すという多数意見の)現在の目的に必要な同意を十分に示しているとは考えていない。

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英語の rule of law は、「法の支配」のほか「法規範」と訳されることもありますが、この場合、どちらの意味なのか厳密に区別する意義は薄いと考えます。両方の含意があると考えます。

パール判事は、各被告の行為に問題が無かったと言っているのではありません。「法の支配」を戦勝国の都合で動かすことはできないよ、と言っていたのだと考えます。私は学びました。全ての法律家は、常に「法の支配」を意識して仕事をしなければならないのです。ものすごく単純化して言えば、バランス感覚が大事という事です。「一寸の虫にも五分の魂」という言葉がありますが、勝ちすぎ負けすぎということは法律の世界には存在し得ないのです。


3、現代日本における「法の支配」と我々法曹の役割


現代のわが国の憲法や民法にも、法の支配の理念は生きています。

日本国憲法
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すこと のできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公 共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第31条 何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑 罰を科せられない。
第81条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則、又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する 権限を有する終審裁判所である。
第98条1項 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務 に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
第98条2項 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守すること を必要とする。

民法第1条 私権は公共の福祉に適合しなければならない。
同2項 権利の行使及び義務の履行は、正義に従い誠実に行わなければならない。
同3項 権利の濫用は、これを許さない。
第90条 公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は無効とする。


そして勿論、わが国も加入している国連憲章にも、法の支配の理念が底流にあります。

国連憲章序文
われら連合国の人民は、
われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、
基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、
正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、
一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること
並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、
国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、
共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、
すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、
これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。
よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当である
と認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機構を設ける。

第1条 国際連合の目的は、次のとおりである。 1.国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団 的措置をとること並びに平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整または解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に 従って実現すること。 2.人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること並びに世界平和を強化するために他の適当な措置をとる こと。 3.経済的、社会的、文化的または人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種、性、言語または宗教による差別な くすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること。 4.これらの共通の目的の達成に当たって諸国の行動を調和するための中心となること。
第94条1項 各国際連合加盟国は、自国が当事者であるいかなる事件においても、国際司法裁判所の裁判に従うことを約束する。


 では、このように、憲法や法律が制定され、国連憲章が採択されたことで、法の支配は確立されたと言えるでしょうか。そうではありません。

 法は、事実関係を認定し、具体的法律を解釈し、これを法律にあてはめ、法律効果を生じる作用ですから、法律制定当時に予想されていなかった ような新しい事態が生じれば、新しい立法をする必要が生じるでしょうし、新しい法律の運用が必要になる場合もありますし、新しい法解釈が必要 となる場合もあります。

 法律は社会を映す鏡のようなものと考えることができます。どのような法律でも立法当時予想していなかったような事態が生ずることがあり ます。社会の変化に伴って、法律の条文や運用や解釈も、変化する必要があります。

 国民の福祉と幸福を守るために、法律のあらゆる段階で、立法(法改正・新法制定)段階でも、行政(適用・執行)段階でも、司法(個 別紛争の交渉・裁判)段階でも、法律の作用に携わるすべての関係者(=法律家)は、「法の支配」の理念原則に立ち返って、自分の仕事 を見つめなおす必要があると思います。

 「法の支配」という用語は、様々な意味を持ち、不明確だから用いるべきではない、という見解もありますが、これを様々な用語に 分解し定義しなおしたとしても、各用語に説明しきれない部分が常に残ってしまうでしょう。我々は常に、今日における「法の支配」 とは何かを問い、考え、行動に移して具体化させて行くことが必要と考えます。不明確だからといって諦めてしまうべきではありませ ん。

 勿論、我々弁護士自身も事件の当事者となることがありますが、職業として法律に触れることのない一般国民であっても、事件 の当事者として、法律事件の適正公平な解決に尽力する必要があると思います。「仕方ない、大したことではないから諦めてしま え」と、国民全員が不当な法律効果に対して泣き寝入りをしてしまったら、それが悪しき前例となり、わが国における「法の支 配」は、大幅に後退してしまうでしょう。憲法や法律が形骸化してしまい、我々国民の自由や権利や正義が失われてしまうでしょ う。小さな事件であっても、決しておろそかにできない所以です。

 我々の時代の日本国憲法には、国民の義務が3つ明記されております。すなわち、教育の義務(26条2項)、勤労の義務 (27条1項)、納税の義務(30条)です。

日本国憲法26条2項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負 ふ。 同27条1項 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
同30条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。

 しかし、私は、ここに、憲法に明記されない、最も重要な義務があると思います。それは、「法の支配」の担い手 としてこれを維持発展させる義務です。前記の通り、「法の支配」は、国民自身が努力を怠れば、後退してしまうも のです。「法の支配」は、我々の財産であり、我々自身の個人の尊厳であり、権利であり、同時に義務でもあると思 います。我々には、人類が長い時間と多くの犠牲を払って獲得し培った知恵である「法の支配」をしっかり相続し、 これを維持発展させて、次の世代へ引き継ぐ義務があるのだと思います。この義務は、民事訴訟法における証人の出 廷義務(民事訴訟法192条)や文書所持者の提出義務(同220条)、刑事訴訟における裁判員の出廷義務(裁判 員法16条)・公平誠実義務(同9条)などに具体化されています。弁護士法の罰則規定(弁護士法75条以下)も 弁護士の制度を保持し法の支配を発展させるための国民の義務を規定したものと考えることが出来るでしょう。ここ に挙げたのは一例にすぎませんし、法律上の義務にとどまらないと思います。それはどのような義務なのか、問い続 ける必要があるでしょう。

 日本国憲法の前文は次のような一文で終わっています。ここに、同様の趣旨が述べられているのではないで しょうか。それは「義務」として他人から押し付けられるようなことではなく、自分自身の行動を規制する決意 のようなものだとも言えるでしょう。

「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理念と目的を達成することを誓ふ。」

 このような努力に終わりはありませんが、我々国民一人一人が、法の担い手としての自覚を持ち、自分自 身の権利の意味を考えこれを正しく行使し、相手にもそれを認めることを、毎日毎日積み重ね、子供達に教 えていくことが、「法の支配」を維持発展させる唯一の手段であると考えます。微力ながら、当事務所も、 その作用の片隅を占めていきたいと思います。

参考文献
1、「現代日本社会における法の支配理念・現実・展望」、日本法哲学会編、有斐閣
2、「プラトン全集第13巻、法律」、プラトン(著)、森進一・池田美恵・加来彰俊(邦訳)、岩波 書店
3、「マグナ・カルタ―イギリス封建制度の法と歴史」William Sharp Mckechnie (著), 禿氏 好文 4、「ハンムラビ法典「目には目を歯には歯を」含む282条の世界最古の法典」、飯島紀 (著)、国際語学社
5、「ハンムラビ「法典」」、中田一郎訳、リトン
6、「上宮聖徳法王帝説 注釈と研究」、沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉(著)、吉川弘文館
7、「法華義疏(抄)憲法十七条」、聖徳太子(著)、中央公論新社
8、「近世公家社会の研究」、橋本政宣(著)、吉川弘文館
9、「身分的周縁と近世社会8 朝廷をとりまく人びと」、高埜利彦(編)、吉川弘文館
10、「元禄の社会と文化」、高埜利彦(編)、吉川弘文館
11、「御当代記、将軍吉綱の時代」、戸田茂睡(著)、塚本学(校注)、平凡社
12、「徳川慶喜公傳 巻四」、渋沢栄一(著)、龍門社
13、「喧嘩両成敗の誕生」、清水克行(著)、講談社
14、「人物で学ぶ日本古代史3平安時代編」、新古代史の会(編)、吉川弘文館
15、パール判決書 https://www.legal-tools.org/doc/2a3d21/pdf

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