新銀座法律事務所 法律相談事例集データベース
No.1293、2012/6/26 15:06

【民事・退職後の競業避止義務・競業避止義務の特約がない場合・最高裁平成22年3月25日判決・名古屋高裁平成21年3月5日判決】

質問:私は,機械部品のX製造会社において営業担当者として勤務していたのですが,自ら起業すべく同社を辞め,同社と同種の事業を営むY社を立ち上げ,退職直後からX社の大口顧客と取引を開始しました。そうしたところ,X社が,私が顧客情報を利用したことにつき違法性があるとして,不法行為に基づく損害賠償を請求してきました。X社と私との間では,退職後の競業避止義務に関する特約等は定められていないのですが,それにもかかわらず,私は,X社に対し,損害を賠償する責任などあるのでしょうか。

回答:
1.X社とあなたとの間で退職後の競業避止義務に関する特約等は定められていないということですから,競業避止義務違反を理由に損害賠償の責任を負うことはありません。
2.しかし,あなたの行為が社会通念上許容されている取引行為の範囲を逸脱しているような場合,X社に対し不法行為による損害賠償の責任を負う場合もあります。例えば
@ あなたがX社の在職中,特別な地位にあったことから知り得た同社の営業秘密に係る情報を用いた場合。
A X社の信用をおとしめたりするなどの方法で営業活動を行った場合。
等,不法行為が成立する場合があります。
3.ご相談の場合,退社直後からX社の大口の顧客と取引を開始したということで,在職中に知り得た顧客情報を利用した点が問題とされますが,それだけでは自由競争の範囲内の行為であり,不法行為は成立しないと考えられます。
4.事務所事例集論文908番574番参照。

解説:
1 (退職後の競業行為)
 労働者は,在職中は,労働契約の付随的義務として競業避止義務を負うとされています。これに対し,退職後は,職業選択の自由の保障(憲法22条1項)に鑑み,原則として競業避止義務は負わないとされています。憲法の諸規定は,国家機関に対する法規範として制定されていますが,私人間の契約関係においても,その趣旨は尊重されるべきであり,私法解釈の基準として影響すると考えられています。

(1) (退職後の競業避止義務に関する特約等が存在する場合)
 退職した就業先との間に退職後の競業避止義務に関する特約等が存在する場合は,例外的に,労働者は競業避止義務を負うことになります。

(問題点)
 もっとも,このような特約等の有効性(特約があったとしても,労働者の自由意思に基づくものか否か,必要かつ合理的な範囲に止まるものか否かという点から,そのような特約が労働者の権利を侵害するとして無効と判断される場合があります)が問題となります。就業規則,雇用契約書,退職時の誓約書など,に特約が規定されている場合です。競業避止義務とは,会社と競業関係にある会社に就職したり,自ら競業関係となる事業をおこなったりしない,という義務をいいます。
 例えば,退職した社員が同じ業種の会社に転職をする場合には,退職社員による機密やノウハウの漏洩,顧客基盤を使われたりする,といったことが生じ得ます。このようなことから,退職社員に競業避止義務を課してこのような行為を制限することは,企業防衛という観点からは当然のことともいえます。憲法が私有財産制(憲法29条),営業の自由(憲法22条1項)を認めている以上,会社の財産,利益を勤務していた従業員でも不当に侵害することは許されません。
 一方で,退職社員本人にとっては,今まで苦労して身に付けた知識や経験,人脈を退職後にも活用したいと考えるでしょうし,今までとは全く違う業界で働くことを選ばなくてはいけない,というのでは,職業選択の自由,生活権が侵害されてしまいます。社員は,経済力がある経営者と異なり生活のため自らの労働力を切り売りして生活していかなければならない立場にあり法の理想である実質的平等を確保し,公正な社会秩序を維持するため労働契約により取得した知識,経験,技術の活用は生活の保障のため広く認める必要があります。判例は以下のように原則論を説明しています。「習得した業務上の知識,経験,技術は労働者の人格的財産の一部をなすもので,これを退職後にどのように生かして利用していくかは各人の自由に属し,特約もなしにこの自由を拘束することはできない。」(金沢地裁昭和43年3月27日判決)。 労働者は,力の関係上,やむを得ず,同意書に署名合意するでしょうから安易に有効性を認めることはできません。

(判断基準)
 よって,退職後の競業避止義務は,会社と従業員本人との間で利害関係の調整が必要となりますが,法の理想から見て合理的な範囲での特約があって初めて認められるものと解釈されています。たとえ,就業規則などの特約で競業避止義務を定めていた場合についても,その適用の可否は具体的事情によって異なり,一義的な基準を申し上げることは困難です。抽象的基準を挙げれば,基本的に労働者の退職後の就職は自由であり,これを制限する取り決めは認められません。例外的に会社に対して利益侵害,背信性が認められる特別の事情がある場合には,競業避止義務の取り決めは有効と考えるべきです。利益侵害,背信性の判断は,@従業員,社員の職種,地位,A競業避止の期間,B競業避止を認める地域,C退職後の競業避止を認めた条件として代償処置がとられているかどうか,D競業禁止行為の具体的内容。以上の基準を総合的に考慮して決めることになるでしょう。 
判例等詳細については,事例集908番574番をご参照ください。

(2) 退職後の競業避止義務に関する特約等が存在しない場合
 退職後の競業避止義務に関する特約等が存在しない場合,一般論ですが,原則として競業行為は自由に行えることになります。資本主義自由主義社会における大原則に従い,自由競争の範囲ということになります。しかし自由競争の範囲を超えるような不正な行為が許されることはありませんから,不法行為に基づく損害賠償責任(民法709条)を負うことはあります。
 
 後記判例(最高裁平成22年3月25日第一小法廷判決)は,「元従業員等の競業行為が,社会通念上自由競争の範囲を逸脱した違法な態様で元雇用者の顧客を奪取したとみられるような場合には,その行為は元雇用者に対する不法行為に当たるというべきである。」と述べています。
 つまり,資本主義社会における自由競争の範囲を逸脱し,元雇用者に損害を与えるような悪質なケースでは,特約がなくても不法行為が成立し,退職後の競業行為が許されなくなるのです。具体的にどのようなケースが不法行為を構成するのかについては,判例の集積が十分とはいえませんが,上記最高裁判例を参考にすれば次のように考えられます。
@元従業員であったことにより初めて知りうる元使用者の営業秘密にかかる情報を用いたり,元使用者の信用をおとしめたりするなどの不当な方法で営業活動を行った場合,不法行為となる。
A退職直後から元使用者の取引先と取引を始めたこと,元使用者の自由な取引が競業行為によって阻害されたこと,退職によって元使用者の営業が弱体化した状況をことさら利用したことは,不法行為を成立させやすい事情となる。
B元使用者に競業行為を行うことを告げる義務はないので,積極的に告げなかったとしても許される。
C元使用者の営業担当者であったことに基づく人的関係を利用することは,許される。

(判例検討)
ア (名古屋高裁平成21年3月5日控訴審判決)
 この点について,名古屋高裁平成21年3月5日判決は,「雇用契約終了後は,当然に競業避止義務を負うものではないが,元従業員等の競業行為が,社会通念上自由競争の範囲を逸脱した違法な態様で雇用者の顧客を奪取したとみられるような場合等は,不法行為を構成することがあるというべきである。」と一般命題を提示した上で,そのあてはめについて,「被控訴人Yらは,主に,被控訴人Y1において控訴人の在職中に機械・設備の製作・保守の設計,見積等を含む営業を担当して,その需要や受注内容を熟知していたAらを主たる取引先として事業を運営していくことを企図して,控訴人と同種の事業を行う被控訴人会社を立ち上げ,その企図目的どおり,被控訴人Yら個人の資質や能力,被控訴人会社の信用というよりは,むしろ,控訴人に在職中に担当していたAらとの従前の営業上の繋がり,すなわち顧客情報を利用し,そのことが控訴人に気付かれないように工作を施し,更に,Aからの売上げについては,控訴人の窮状に乗じてこれを奪い,また,Bからのそれについては,被控訴人Yらが同種事業を行っていることを秘匿してあたかも他業者を紹介するように装って控訴人からの同意を取り付けた上取引を開始する等の方法も用い,控訴人に大きな営業損を生じさせた反面,被控訴人会社のほぼ全営業を控訴人の従前からの顧客に依存させるような結果を招来させたものであり,これらを併せ考えると,被控訴人Yらの行為は,もはや,社会通念上自由競争の範囲を逸脱した違法な行為であると評価せざるを得ない」としました。

イ(最高裁平成22年3月25日上告審判決)
 これに対し,その上告審である最高裁平成22年3月25日判決は,上記一般命題は支持したものの,そのあてはめについては,以下のように判示して,名古屋高裁判決とは逆の結論を導き出しました。すなわち,「上告人Y1は,退職のあいさつの際などに本件取引先の一部に対して独立後の受注希望を伝える程度のことはしているものの,本件取引先の営業担当であったことに基づく人的関係等を利用することを超えて,被上告人の営業秘密に係る情報を用いたり,被上告人の信用をおとしめたりするなどの不当な方法で営業活動を行ったことは認められない。また,本件取引先のうち3社との取引は退職から5か月ほど経過した後に始まったものであるし,退職直後から取引が始まったAについては,前記のとおり被上告人が営業に消極的な面もあったものであり,被上告人と本件取引先との自由な取引が本件競業行為によって阻害されたという事情はうかがわれず,上告人らにおいて,上告人Y1らの退職直後に被上告人の営業が弱体化した状況を殊更利用したともいい難い。さらに,代表取締役就任等の登記手続の時期が遅くなったことをもって,隠ぺい工作ということは困難であるばかりでなく,退職者は競業行為を行うことについて元の勤務先に開示する義務を当然に負うものではないから,上告人Y1らが本件競業行為を被上告人側に告げなかったからといって,本件競業行為を違法と評価すべき事由ということはできない。上告人らが,他に不正な手段を講じたとまで評価し得るような事情があるともうかがわれない。以上の諸事情を総合すれば,本件競業行為は,社会通念上自由競争の範囲を逸脱した違法なものということはできず,被上告人に対する不法行為に当たらないというべきである。」としたのです。

ウ 名古屋高裁判決と最高裁判決の大きな違いは,顧客情報の利用につき,名古屋高裁判決はこれを不法行為成立の積極要素と捉えるのに対し,最高裁判決は捉えないということにあるといえます。
 従来の下級審判決は,上記名古屋高裁判決も含め,顧客情報の利用につき不法行為成立の積極要素と捉えるものが多数でした。しかし,顧客情報の利用は退職した営業担当の従業員が元使用者と同種の事業を営む場合にはむしろ一般に生ずることであって,従来の下級審判決の立場では職業選択の自由(憲法22条1項)が過度に制約される事態となるおそれがあります。最高裁判決の「本件取引先の営業担当であったことに基づく人的関係等を利用することを超えて,被上告人の営業秘密に係る情報を用いたり,被上告人の信用をおとしめたりするなどの不当な方法で営業活動を行ったことは認められない。」とのくだりは,このような危惧に基づくものと思料いたします。

2(本件の場合について)
(1) あなたは,X社の顧客情報を利用したとのことですが,このことのみをもって違法性が認められるというわけではなく,X社の営業秘密に係る情報を用いたり,X社の信用をおとしめたりするなどの方法で営業活動を行ったのでなければ違法性は認められません。
(2) また,あなたは,退職直後からX社の大口顧客と取引を開始したとのことですが,このことのみをもって違法性が認められるというわけではなく,X社が営業に消極的であるなどして,X社と大口顧客との自由な取引があなたの行為によって阻害されたという事情がないのであれば違法性は認められません。

≪参考判例≫

最高裁平成22年3月25日判決 妥当な結論でしょう。
1 本件は,被上告人の従業員であった上告人Y1及び同Y2(以下,両者を併せて「上告人Y1ら」という。)が,被上告人を退職後,上告人Y3(以下「上告人会社」という。)を事業主体として競業行為を行ったため,被上告人が損害を被ったとして,被上告人が上告人らに対し,不法行為又は雇用契約に付随する信義則上の競業避止義務違反に基づく損害賠償を請求する事案である。
2 原審の適法に確定した事実関係等の概要は,次のとおりである。
(1) 被上告人は,産業用ロボットや金属工作機械部分品の製造等を業とする従業員10名程度の株式会社であり,上告人Y1は主に営業を担当し,上告人Y2は主に製作等の現場作業を担当していた。なお,被上告人と上告人Y1らとの間で退職後の競業避止義務に関する特約等は定められていない。
(2) 上告人Y1らは,平成18年4月ころ,被上告人を退職して共同で工作機械部品製作等に係る被上告人と同種の事業を営むことを計画し,資金の準備等を整えて,上告人Y2が同年5月31日に,上告人Y1が同年6月1日に被上告人を退職した。上告人Y1らは,いわゆる休眠会社であった上告人会社を事業の主体とし,上告人Y1が同月5日付けで上告人会社の代表取締役に就任したが,その登記等の手続は同年12月から翌年1月にかけてされている。
(3) 上告人Y1は,被上告人勤務時に営業を担当していたAほか3社(以下「本件取引先」という。)に退職のあいさつをし,Aほか1社に対して,退職後に被上告人と同種の事業を営むので受注を希望する旨を伝えた。そして,上告人会社は,Aから,平成18年6月以降,仕事を受注するようになり,また,同年10月ころからは,本件取引先のうち他の3社からも継続的に仕事を受注するようになった(以下,本件取引先から受注したことを「本件競業行為」という。)。
本件取引先に対する売上高は,上告人会社の売上高の8割ないし9割程度を占めている。
(4) 被上告人はもともと積極的な営業活動を展開しておらず,特にAの工場のうち遠方のものからの受注には消極的な面があった。そして,上告人Y1らが退職した後は,それまでに本件取引先以外の取引先から受注した仕事をこなすのに忙しく,従前のように本件取引先に営業に出向くことはできなくなり,受注額は減少した。本件取引先に対する売上高は,従前,被上告人の売上高の3割程度を占めていたが,上告人Y1らの退職後,従前の5分の1程度に減少した。
(5) 上告人Y1らは,本件競業行為をしていることを被上告人代表者に告げておらず,同代表者は,平成19年1月になって,これを知るに至った。
3 原審は,上記事実関係等の下において,次のとおり判断して,被上告人の請求を一部認容すべきものとした。
(1) 元従業員等の競業行為が,社会通念上自由競争の範囲を逸脱した違法な態様で元雇用者の顧客を奪取したとみられるような場合には,その行為は元雇用者に対する不法行為に当たるというべきである。
(2) 上告人Y1らは,本件取引先を主たる取引先として事業を運営していくことを企図して本件競業行為を開始し,上告人Y1の上告人会社への代表取締役就任等の登記手続を遅らせるなど被上告人に気付かれないような隠ぺい工作等をしながら,上告人Y1と本件取引先との従前の営業上のつながりを利用して被上告人から本件取引先を奪い,上告人会社の売上げのほぼすべてを本件取引先から得るようになる一方で,これにより被上告人に大きな損害を与えたものであるから,本件競業行為は,社会通念上自由競争の範囲を逸脱したものであり,上告人らによる共同不法行為に当たる。
4 しかしながら,原審の上記3の判断のうち,(2)は是認することができない。その理由は,次のとおりである。
前記事実関係等によれば,上告人Y1は,退職のあいさつの際などに本件取引先の一部に対して独立後の受注希望を伝える程度のことはしているものの,本件取引先の営業担当であったことに基づく人的関係等を利用することを超えて,被上告人の営業秘密に係る情報を用いたり,被上告人の信用をおとしめたりするなどの不当な方法で営業活動を行ったことは認められない。また,本件取引先のうち3社との取引は退職から5か月ほど経過した後に始まったものであるし,退職直後から取引が始まったAについては,前記のとおり被上告人が営業に消極的な面もあったものであり,被上告人と本件取引先との自由な取引が本件競業行為によって阻害されたという事情はうかがわれず,上告人らにおいて,上告人Y1らの退職直後に被上告人の営業が弱体化した状況を殊更利用したともいい難い。さらに,代表取締役就任等の登記手続の時期が遅くなったことをもって,隠ぺい工作ということは困難であるばかりでなく,退職者は競業行為を行うことについて元の勤務先に開示する義務を当然に負うものではないから,上告人Y1らが本件競業行為を被上告人側に告げなかったからといって,本件競業行為を違法と評価すべき事由ということはできない。上告人らが,他に不正な手段を講じたとまで評価し得るような事情があるともうかがわれない。
以上の諸事情を総合すれば,本件競業行為は,社会通念上自由競争の範囲を逸脱した違法なものということはできず,被上告人に対する不法行為に当たらないというべきである。なお,前記事実関係等の下では,上告人らに信義則上の競業避止義務違反があるともいえない。
5 以上と異なる見解の下に被上告人の請求を一部認容した原審の判断には,判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。論旨は理由があり,原判決のうち上告人ら敗訴部分は破棄を免れない。そして,以上説示したところによれば,上記部分に関する被上告人の請求は理由がなく,これを棄却した第1審判決は正当であるから,上記部分に係る被上告人の控訴を棄却すべきである。

≪参照条文≫

憲法
〔居住,移転,職業選択,外国移住及び国籍離脱の自由〕
第22条 何人も,公共の福祉に反しない限り,居住,移転及び職業選択の自由を有する。
A 何人も,外国に移住し,又は国籍を離脱する自由を侵されない。

民法
(不法行為による損害賠償)
第709条 故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は,これによって生じた損害を賠償する責任を負う。

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